元小学校教員のもっと生きやすく・楽しくなるんじゃないかブログ

小学校教員病休→休職→退職。幼い2児の育児中。誰にでもその人固有の良さがある。それを輝かせて、よりよい人生を歩んでいきましょう。

道徳心はどうやって育てる?私が考える学校の理想の姿。

こんにちは。kazです。

 

私は小学校教員時代、道徳を専門にしていました。

専門と言っても、別に申請するわけでも宣言するわけでもないですが、

みんなそれぞれ、教科や各分野で得意なものを持っており、

それがいつしか、道徳なら〇〇先生に聞け、生徒指導なら△△先生だろ、

みたいな感じになります。

 

私はたまたま公開した道徳の授業が指導者の目に留まり、

そこから授業を頼まれるようになり、主任になり、指導者になり、みたいな形で

専門と言えるようになっていきました。

道徳の授業を考えるのであれば、何時間でもやっていられます。

とにかく、楽しくて面白くて、私の性に合っていたのでしょう。

 

先日、知人に、どうして道徳にはまったのか聞かれました。

なぜなのか、明白な答えは出ませんでした。

なのでそれからずっとそれを考えていました。

 

道徳にはの価値項目というのがあって、

例えば、正直とか、友情とか、命の大切さとか、

それらの中に特にこだわっていたものがあるというわけではない。

休職してから久しぶりにその項目を眺めてみたけれど、

どの項目を見ても、今でもワクワクする。

やっぱり好きなんだ。

 

授業をするよりも、授業を組み立てている時が楽しかった。

授業を組み立てる・・・

だいたい教材の話の流れは決まっていて、

例えば、

 仲良しの友だちとちょっとしたことでけんかしてしまった主人公、

 モヤモヤする気持ちを抱えていたところ、お母さんが何となく背中を押してくれ、

 最後は謝ることができた

みたいな感じで、

人間の弱さから始まり、葛藤を経て、覚醒する

というのが主流でした。

(もちろん全然違う題材もあるし、時代や教材会社によっても変わります。)

その人間らしさの勉強というのが、面白かったのかなと思いました。

 

ただ、当時はとにかく一生懸命で、ある意味盲目的に必死に授業をしていましたが、

今こうやって道徳教育について改めて考えてみると、

こんなの学校で教えるべきことじゃない

というのが正直なところです。

家庭と社会の中で育てるべきものです。

もとい、家庭と社会の中で育つものです。

親や周りの大人が、道徳的な行いをしていればいいのだと思います。

その背中を見て、子どもは勝手に学ぶんです。

 

道徳について研究していたので、私はそれなりにその部分を理解していました。

授業ですべてを教えるわけではなく、授業では心に種を蒔いておくくらいでいい、

いつか子どもたち自身がその花を咲かせればいい。

だから楽しく続けられたのかもしれません。

でも、道徳の教科化、そして道徳を評価する、という流れになっています。

 これじゃあますます先生がヒーヒー言って、教育力が落ちます。

 

そもそも、学校の役割ってなんだろう?

家庭やその地域で暮らしているだけではでは果たせないことをやってくれる場所。

学校でしかできないことをやらなければ。

それは、集団生活と様々な体験と専門分野に触れるってことでしょうか?

 

道徳で言えば、心の教育は家庭と地域が基本的に担う、

で、学校では、じゃあちょっとそこをみんなで話し合って深めてみようか、

みたいなスタンスがいいですよね。

 

算数の掛け算の宿題をAIに答えさせているのが問題だとかテレビで見ましたが、

そんなの全然問題じゃない、そんな宿題出す方が問題でしょって思いました。

塾行っている子もいれば、AI駆使できる子もいる、それでいいと思うんです。

それを、塾で習っているけれど学校のやり方でやれ、とか、電卓は使うな、とか、

私も平気でそんなこと言っていましたが、

パワハラ以外のなにものでもない・・・

 

音楽ではいろいろな楽器に触れることができるし、

図工ではのこぎりを使うことができる。

そういう家庭でできないことをたくさん体験できる素晴らしい場所なんです。

 

学校が変わらなきゃいけないですよね。

授業スタイルも学級スタイルも何もかも。

もう実施している学校もあると聞いていますが、小学校も教科担任制がいい。

私は絶対に道徳専科。

好きな教科だったら、少しの苦労も喜びになるんですよね。

好きでない教科の場合は、やっつけ仕事になってしまう。 

 

あとは、自主学習時間がたっぷりあるのがいい。

好きな教科・分野を好きなだけ深めていい。

繰り返し計算プリントとか、漢字書き取り練習だって、

一斉に宿題となると否だけど、本人がやりたければいいと思う。

なぜそれをやるのか目的があって、どんな学びがあったのか振り返りさえすれば、

立派な学習です。

 

好きなことやっていいって言ったら、子どもたち喜ぶんだろうなー。

そういう子どもがやりたいことを応援できる場にしたいですよね。

そして、その時間に先生も教材研究ができたら、最高ですよね。

 

退職してからも、こうやって理想の学校を妄想しています。

別に学校を作るつもりはありません。

ただの趣味です。

 

我が子からいろいろ教わりました。

子どもはこちらが言って教えたことで学ぶのではない、

親を見て、周りを見て、真似をして学ぶんだと。

そして、学びたいときは、環境さえ用意すれば、自分からガンガン学ぶんだと。

それに気づいてから、学校でやっていたことは無駄だったとは言いませんが、

的外れなことをしていたなと思うんです。

家庭の力、地域の力、学校の力が結束すればいいんです!

と結論は出ているんですけど、たぶんずっと昔から言われ続けてきたんですけど、

一向に実現しないという話です。。。

教員休職してよかったけれど、退職してよかったかどうか。初めて担任した子から連絡が来て考えた。

こんにちは。kazです。

 

実は、今日、インスタ経由で、元教え子からメッセージが届きました。

新卒初任時に担任した子です。

もう25歳くらいになるのかな?

成人式のときの写真も送ってくれました。

懐かしい~~

男子はほとんどわかるけど、女子は大人になっていて全くわからない。笑

男っていつまでも子どもなのかしら・・・

と、先生気分を久しぶりに味わいました。

 

自分としては、あまりよくない(少し悔いが残る)辞め方だったので、

教員だった自分に対して、負のイメージを持っていました。

でも、当時の教え子と会話して、

楽しかったことや、一生懸命だったことを思い出して、

何ていうか、キラキラしたイメージを持つことができました。

 

以前「休職してよかったこと」という記事を書きました。

でも、退職してよかったかどうか・・・?

 

そう、今だに教育や子どもの成長に関心があり、私が何とかしなければ!

と思っている私です。

そんな私が退職してよかったかどうか、

結論は、退職してよかったです!

 

でもこれは、「私」だから当てはまることです。

一概に退職した方がいい、とはなりません。

その説明をしますね。

 

学校に行けなくなって、人生の一番どん底まで落ちた私が、

自信もモチベーションもガンガン向上させました。

これは、間違いなく休職したからです。

休むって本当に本当に大事なことです。

そして自分を見つめる、自分を取り戻す、このプロセスも超大事です。

 

その時に掘り出し見つけた自分の本当の姿があります。

教員していて、母をしていて、本当の自分が見えなくなっていたんです。

何が得意で、何が苦手で、何が好きで、何を望んでいるのか・・・

いろんな自分を眺め、発見しました。

 

そうして見えてきた私の長所は、

学校の担任としてではなく、別の業種でこそ生かせるものだとわかりました。

 

だから退職したのです。

そして、今のような活動をしています。(どんな活動かまた別の機会に)

 

もし、私の長所が教員にふさわしいものだったら、

退職しなかったと思います。

 

あとは夫の稼ぎがなかったら、すぐには退職できなかったですね。

そこは恵まれていたところです。

 

そう、退職した方がよいのかどうかは、一概には言えないということです。

その人の環境やその人の良さ・個性、

もっと言うと、どんな経験をしてきたか、何を大事な価値観としているか、

そういうことも全部含めて、決断した方がよいということです。

だって、仕事は人生の一部ですから。

仕事をやめたって、人生は続きます。

人生を豊かにすることを優先したいですよね。

 

とにかく、休職はした方がいい!これは断言します。

苦しさや違和感を感じているのであれば、少し休む、離れる、

休職しなくても、休暇をもらうとか、それでも十分効果があります。

 

そして退職は、「本当の自分」とよーく相談して決めるべし。

決まらなかったら、休職を延ばせますしね。

それでも決まらなかったら、退職して、やりたくなったときにまた試験を受ける。

やり方はいくらでもあります。

失敗なんてありません。

 ↑なんて、半年前は失敗したくなくて、病休すらなかなかとれなかった私です。

 

 

まさか、元教え子、しかも初めて受け持った子とインスタフォローし合うとは。

本当に、ただただ嬉しい。

退職して3か月弱。人生わからないものですね。

仕事が辛い、休みたい、やめたいと思った先生たちへ。残業から思うこと。

こんにちは。kazです。

 

最近、いろんな場所に行って、いろんな人に会って話して、

ぐるぐる、ぐるぐる考えていて、

何となく今日から少し違う方向性でブログを進めていこうかと思っていたところ、

はてなブログさんより

「今日でブログ開設半年が経ちました、おめでとう」

というメールが届き、

やっぱりタイミングってあるんだなぁと胸の高鳴りを感じています。

 

大きく変更はまだできませんが、 

とりあえず、今日は教育のことを書こうと思います。

 

ここ最近は、育児と私のマインドの話が多かったのですが、

なぜ教育に方向が変わったかと言うと、

ブログへのアクセスがGoogle元が多く、休職についての閲覧が多いことに気づいたからです。

教員をやっていて休職を考えている人が、私のブログに情報を求めにきているのではないかと推測しました。

 

あの仕事をまじめにやっていたら、そりゃあ苦しくなるのも当然です。

真剣に向き合っていたら、いつまでたっても帰れません。

産休に入る前は、当たり前のように残業していました。

少なくて3時間、多い時は5時間6時間・・・

思い出したくもありません。

 

そんな私を尻目に、定時で帰るベテランの先生がいました。

若いころは、かっこいいな、早くああなりたいな、と思っていました。

5年が過ぎても私の残業体質は変わりませんでした。

同じ世代の同僚でも早く退勤する人もいました。

 

なんて私は要領が悪いんだろう。

本当に仕事ができない人だな。

 

と自分を否定するようになりました。

何か病気なのかな?とさえ思ったこともあります。

でも、やった仕事はそれなりに評価されて、キャリアも積んでいきました。

 

それからも要領の悪さは変わらない、

でもどんどん責任のある仕事が回ってくる。

自分が壊れそうになるのを抑えつつ、「努力」「根気」で何とかやっていました。

 

自分では全然できていないと思っている

  ↕

でも評価は悪くない

 

この構造があったために、弱音を吐けないのも辛かった。

 

結局育休から復帰して、育児も仕事もしっかりやりたいけれどできない

という状況になり、学校に行けなくなってしまったのです。

その時の気持ちは、

 

自分は仕事も育児も、何もできない人間だ。

価値のない人間だ。

 

そう思い込んで、毎日泣いていたし、消えたいと思っていました。

 

それが、今は・・・

 

 

私にしかできない仕事がある。私にしかできない育児がある。

私は価値ある人間だ。

 

と思えるようになりました。

 

思えるというか、みんなそうなんです。

みんな価値ある人間なんです。

それに気づかず、自分をダメだと思う、

そう思わせてしまう職場環境はいかがなものかと思います。

 

当時は、残業と仕事に対する考え方はこうでした。

 

定時に帰る = 仕事ができる人

残業する = 仕事ができない人

 

でも、ある時気づいたんです。

本当に教員として仕事ができるってどういうことか。

 

仕事ができる人 = 子どものことを真剣に考えている人

 

ですよね。

 

もちろん、定時に帰る人でも、子どもの成長を常に考えている人もいます。

でも、そんなすんばらしい人は、ほんの一握りです。

 

私が残業していたのは、仕事ができなかったからではなく、

子どもたちのためにがんばっていたからなんだ、と気づいたら

すごく楽になりました。

(もう退職しちゃったんですけどね・・・)

 

実際、今いくつか仕事をさせてもらっていますが、

どの仕事をしても、完成度が高いと評価されます。

今日も、さっすが元先生!と言われました。笑

 

適当に何となくで終わらせるのではなく、

子どもたちのため、相手のために働けるそのまじめさは、

決して恥ずべきことではないのです。

 

もちろん、コスト意識を持って、時間内に終わらせるということも重要ですが、

そのまじめさは武器になるのです。

 

もしあのままあの場所にいたら、このことには気がつけなかったと思います。

ずっと自分はダメだと思って人生を送らなくてはいけなかった・・・

恐ろしいことです。

 

まずは、周りと比べて自分はどうか、ではなく、

自分自身の仕事に対する思いはどうか、を見るようにしました。

それが子どものためになっている、相手のためになっていることであれば、

「仕事ができない」わけではありません。

 

その目的意識がはっきりしてくると、優先順位もはっきりしてきます。

まじめな人は、全部やりたくなるんですよね。

私も、何でこんなことに時間かけてるんだろうって、日々思っています。

でも、まじめはダメだ―ではなくて、

ナイス、まじめ!でも今はこれは違うぞ。

って自分に突っ込みを入れられるようになりました。

そんなくらい、軽い気持ちで、ちょっと自分を客観視してみると軽くなります。

私なんて、

意外と自分やるじゃん!

から、

私なら世界を変えられる!

くらいまで自信が上がってますから。行き過ぎですよね。

 

人生長いし、世界は広い、

少しでも先生たちの力になれればな、と思っています。

 

 

<追記>

新しいサイトに移動しました。

生きにくさを感じていた私が気づいた

人生も仕事も気楽に楽しくする考え方を記事にしています。

thinking-kazuking.com

 

thinking-kazuking.com

私のゴールと我が子のゴールのズレの話。

こんにちは。kazです。

 

最近決意したのは、夕方子どもを迎えてからはスマホをいじらないこと。

ちょっとのつもりが、SNSって本当に心を持っていかれるんですよね。

私の場合、子どもと向き合うのを阻んでいるのは、8割スマホだと思います。

現代の育児はそういった意味でも難しさがあるような気がします。

いや、できている人は当たり前にできているんですけどね。

私にはハードルが高いものの一つです。

これも大人の都合で子どもを育てている例になりますね。

 

もう一つ、大人の都合でやっていたなーと思った出来事がありました。

 

我が家では、子どもの髪の毛は夫が切っています。

私は完成度を気にしてしまう人なので、そこはノータッチ。

弟の髪が伸びているのが気になったらしく、ベランダで水遊びをしている隙に切ろうと試みていました。

まだ「髪の毛切るからここに座って」とか全然わかる年齢じゃないので。

それを見ていた上の娘が、「私も切りたい」と言い出しました。

夫が「ベランダに出てきてー」と言うと、

娘は「鏡見ながら自分でやる」と言い出しました。

 

それを聞いた私が思ったことは、

 

全然長さが気になる状態じゃないから切る必要ないし、

今の長さでかわいいし私は好き、

なのに自分で切ったらどうなる!?

やめてほしいーー

 

ということでした。

完全に私の都合です。

大人は(私は?)こうやって出来上がりがどうか、を気にするんですね。

 

じゃあ娘の気持ちは?

たぶん、

 

自分で切りたい!

 

ただこの1点だったんだと思います。

 

私のゴール=かわいいちょうどいい長さになる

娘のゴール=自分で切る

 

今回は瞬時にこのことがわかったので、

私の都合を押し付けることも発言することもなく済みました。

何も言わずに、危険がないようにだけ見守りました。

 

前髪をすきばさみで切る娘、もうルンルンですよ。

なんだかんだで、いろんなことをお任せできるようになった私も、

まあ何とかなるでしょうと楽観的に見ていられました。

 

これも経験が肝です!

何でもやらせようとし始めたころは、見ていてハラハラドキドキ、

胃がキリキリしちゃうときもありました。

当たり前だけど完成度は低いから、やっぱり任せるんじゃなかったーと後悔することも多かった。

回数を重ねていくうちに、任せても何とかなるんだーと思えるようになって、

私自身が完璧を求めない方が楽なのを知ったことも相まって、

無駄なエネルギーを使わずに見ていられるようになりました。

 

前髪ガタガタですけど、そんな自分を鏡で見て、

うん、かわいい♡

その満足そうな顔。

完成度じゃないんですね、娘はただただ「自分で切る」を実行したかったんですね。

その思いに気づいてあげられてよかったー。

 

娘も私も成長した出来事でした。

まあ、あまりに不格好になっていたら、イライラしちゃってたのかも・・・

 

ちなみに、夫はそういうのを気にせず任せられるタイプ。

それにはじめの頃は、やめてよーって何度思ったり言ったりしてきたことか。

 

完成度じゃなくて経験重視。

子どもを育てる上で、教育においても、これほんと大事ですよね。

いろんなこと経験して失敗して学ぶ、これがないと成長なんてありません。

私はこれをしないで大人になったから、大きく転んだんだと思っています。

失敗したくないから経験しない、だから学びがない。

ちゃんと学んで大人になりたかった。

でもこのことが今の私をつくっていると思うと、感謝すべきことでもあります。

最近はそう思えるようになりました。

 

話があっちゃこっちゃしてますが、

子どもが何を求めているのか、大人の都合なしに気づいて助けてあげられるように、

今日も精進していきいます!

まずはスマホを手放します!

 

子どもを作る目的の話。何のために子どもを作るの?

こんにちは。kazです。

 

エネルギーが満ちています。

やっぱり自分の思いと行動とすべてが一致しているって、気持ちがいい。

育児も仕事も悩みだらけで、傍から見たら何も変わってないようですが、

心が充実感いっぱいです。

 

長い間教育に携わってきて、

今の仕組み、やり方、どうにかしないと日本の将来危ういなーと思っているのですが、

教育界より、今は育児の方に気持ちが向いています。

なんと言っても子どもは親からの影響が一番大きいですから。

いや、でも教育によって子どもの伸びようとするものを阻んでいるのも否めないので、

もうとにかく社会の子どもに対する見方考え方をすべて変えなきゃ!

とあっち行ったりこっち行ったりで、狙いが定まらないのが悩みです。

 

そもそも、子どもって何のために生まれてきたのでしょうか?

私たちは何のために子どもを作り生み育てているのでしょうか?

 

かつて日本でも、子どもが労働力と見なされていたり、養えなければ捨て子が当たり前だったりした時代がありました。

現代は子どもは宝であり、子どもは愛すべき尊ぶべき存在だとされています。

 

さて、なぜ私が子どもを作ったのかというと、

一言でいえば、「自分のため」でした。

結婚すれば子どもがいるのが当たり前だし、

愛する夫との間に子どもが欲しいと思ったし、

子どもがいればお互いの両親も喜ぶし、

今よりももっと幸せになれると思って、子どもを作りました。

完全に自分のためです。

 

逆に、そういう理由以外で子どもを作る人っているのでしょうか?

子どもが大好きだから、

計画していない妊娠、

単純に子育てをしてみたいから、

このくらいしか思いつきませんでした。

 

いずれにしても、「自分の都合で子どもを作る」ということですよね。

 

それが、子どもを産んだ瞬間、母となり父となり、

子ども優先の生活が始まる・・・

子どもは宝だから、愛さないといけないから、

そんな義務感で母親をがんばってやっている時期もありました。

 

子どもがいたら幸せになれると思っていたけれど、

子育てそんな甘いもんじゃなかった。

 

第一子はなかなか授からず不妊治療もしたので、

まず妊娠することがゴールだった、

妊娠が叶ったら、無事に出産することがゴールになった、

出産したら、夜中の授乳、何で泣いているかわからない、なかなか寝ない、

離乳食が面倒、外で食事ができなくなった、保育園どうしよう、悩みが尽きない育児、

 

あれ?私いつになったら幸せになれるの?

何のために子育てしているの?

 

教員の休職時と同じですね。

目的とやっていることがちぐはぐで、意欲がわかない。

何のためにやっているのかわからない状態で、

でも育児を止めるわけにもいかず、

負のループにはまっていました。

 

出産の前後には専門家(お医者さんとか助産師さん)がついてくれているからいいけれど、

育児に関しては、誰も何も教えてくれない。

自分で情報を求めにいかないといけないし、

それで良質な情報に出会える確証もない。

 

今になっていろいろ勉強して、失敗を重ねて、

何が大事なのかが見えてきたけれど、

 

でも本当は、一番大事な乳児期に知っていたかったことばかり。

いや、もっと前、子どもを作ろうとした時に知っていたかった。

 

自分が幸せになるために子どもを作ろうとしたら、大変なことになるよって、

教えてほしかった。

子どもを作る、産み育てるってこういうことだよって、教えてほしかった。

 

今の私が考える、子どもを作り、産み育てる目的は、

「未来をより良くするため」だと断言できます。

子どもが労働力ではない時代に、子は宝と言われる所以は、

子どもの持っている力に計り知れない可能性があるからなんだと思います。

毎日子どもに接していて、子どもの圧倒的な力に驚かされます。

 

私たちも子どもだったから、実はそれを持っているんですけどね。

大人になるにつれて忘れていくというか、蓋をするというか。

 

今のまま子どもを育てていたら、教育とか社会とかが変わらなかったら、

結局私たちと同じように、いっぱい蓋を閉じた大人にしちゃう!

と何かの瞬間に気づいたんですよね。

 

とにかく、子どもの持っている可能性をひたすら伸ばす育て方をしたいと思います。

そして、素敵な未来を子どもたちに築いてもらおうという魂胆です!笑

大人の都合で育ててしまった弊害

こんにちは。kazです。

 

教員の休職をきっかけに、自分を再発見して、

満たされた感覚が持てるようになりました。

その経験を生かして同じように困っている人を助けられるんじゃないか、

と思って前進してきたのですが、

その時々で押しつけがましくなったり、

やっぱり方向が違うんじゃないかと彷徨ったり、

今は少し立ち止まっているところです。

でも焦る必要はない、焦るものではないと思うようになり、

敢えて自分や周りを眺める時間をとっているところです。

 

娘の言動がやっぱり気になります。

かつて自分が苦しかったように、苦しんでいると感じるからです。

まだ若干4歳ですが・・・

 

話もよくわかり、待つとか我慢するとか譲るとかができます。

もちろん、彼女の無理のない範囲で、彼女の思いを大切にしながら、

必要な時にそうしてもらっています。

そうでないと、生活が回りませんから。

私自身がそうやってできるようになったのはつい最近ですけど。

以前は、彼女の思いを大切にしたいけど、家事もしなきゃいけないという感覚でした。

つまり

娘の思い < 家事

という構図でしょうか。

 

今は、最近は、

娘の思い > 家事

 

当たり前ですけど、できていなかったです。

だって、ご飯作らなきゃ、洗濯しなきゃ、片付けなきゃ、ですもんね。

でもこうやって、不等号記号をつけると、娘より家事をとっていたのかー、

と明確になってしまって、罪悪感が強まります。

 

とまあ、そんな育児をしていました。

もちろん家事もするけれど、娘の思いを大切にしながら進めるようになりました。

娘としては我慢しなきゃいけない時間もあるけれど、

ちゃんと受け止めてもらっているということに満たされるのでしょうか。

お互いに気持ちよく過ごせています。

ぐずったとしても、娘の思いを大切にしているので、

その気持ちを受け止め、私にできる最善を尽くします。

娘も満たされる、私も娘を大事にという思いを貫けるので満たされる。

 

例えば、

キッチンに設けているゲート、もう二人とも開閉できるので、あまり意味がないのですが、

「今日は時間があまりないから、お母さんだけでお料理するね、ここに入らないでね」

と伝えました。

いつもなら、たれを入れるとか、味噌をとくとか、

簡単な作業ならやりたいと言えばやらせてあげています。

そうすると下がくっついてきて大変時間がかかります。汗

でも今回はそれはしない、と伝えました。

初めは普通に、わかったー。という返事。

でもやってるのを見ていてやりたくなって、それやりたい!モードに。

でも今日は約束だから。

 ↑ これって結構大事で、ここで無理して、「じゃあ1回だけ」とすると、

1回じゃ済まないし、下の子も来ちゃうし、結果イライラ、娘も不機嫌・・・

そんなループがわかっているので、自分に無理をしないって大事です。

無理がないなら、もちろんいいと思う。

もともとゆとりのない私には、無理!笑

 

話を戻して、

今日は入らない約束だよ、と言ったら、娘はポロポロと涙を流しました。

たぶん、自分を否定された、拒否されたと思ったのでしょう。

でも、私はお互いのことを思ってやっているので、心は乱れず、

悲しい気持ちになったんだね、と受け止め、抱きしめる。

ここは時間をかけて話を聞く。

ちゃんと向き合う。

結局時間はかかりますね。

でもこの子にとってここは大事だと思えたなら、時間なんてかかってもいいです。

私がどういう思いで入らないでと言っているのか、

嘘はないから、全部正直に話します。

ちゃんと説明すればわかってくれます。

娘が求めているのは、

調味料を入れたい、ではなく、自分の気持ちを受け止めてほしい、

なのだと私もわかっているので、求めていることに応えてあげます。

時間はかかったけれど、満足して食卓につくことができました。

 

娘は、突然怒ったり、物を投げたりします。

暑いから寝られない!と怒って、枕から布団からシーツから投げ落として、壁をける。

この靴下じゃ気に入らない!と急に怒り出し泣きわめき、無理難題を言ってくる。

イヤイヤ期はもう過ぎているはずなのに、

何でそんなことで怒るの?と不思議だしイライラするし、

どうにもできないと思っていたけれど、

今は何となくわかったような気がしています。

 

暑さとか靴下とかはきっかけであって、原因じゃない。

『なんかモヤモヤするけど、何にモヤモヤしているのか自分の思いがわからない』

状態なんだと思います。

何となく満たされていない感じ。以前の私と全く同じです。

なぜ私も娘もそういう状態なのかと言うと、

イヤイヤ期とか、自分の思いをわかって!という時期に、

親にわかってもらえなかったから。

ただそれだけです。

自分が訴えたいことがあるのに、その思いを受け止めてもらえないから、

自分の思いを封印するしかないんです。

そんなふうに思ってしまう自分が悪いと思うんです。

でもいつも自分が悪いと思うと辛いから、人のせい・何かのせいにするんです。

たぶんそういう心の仕組みができあがったのだと思います。

 

でも大丈夫、それに気づいてからやり直せば。

だって、30年以上苦しんで私は解放されたという実績があるから。

娘は新しい心の仕組みを作ります。

 

でもやっぱり一番いいのは、

子どもの思いをいつも受け止め、いつも向き合うということ。

余計な苦しみを味わわなくても済みますから。

 

やりたいことがわからない、見つからないと言う若者が多いと聞きますが、

こういうことが要因になっているのかな?なんて思ったり思わなかったり。

どうなのでしょう。

タイトルに、大人の都合で育ててしまった、と書きましたが、

学校も然り、なのかなーと。

子どもは大人の都合に合わせるしか術がないですからね。

そういうことを大人が自覚しているかどうか、

それがどんな弊害を生むかを考えているかどうか、

そこって結構大事だと思うんですけどね。

私のハイセンシティブさについての分析

こんにちは。kazです。

 

今朝、夫と、私の完璧主義的な、ハイセンシティブな性格について語る時間があり、

自分のことをまた深く知れたので、それを書きます。

 

昨晩、私と子どもたちはママ友の集まりに出かけ、夫は飲み会でした。

子どもたちは保育園後に出かけて疲れ切っていたので、

帰宅してすぐにお風呂、歯磨き、すぐにベッドに行き眠るという工程で動きました。

 

眠ったところで夫が帰宅、

流しに残っていた洗い物を片付けようとしたら、

「やっておくから、いいよ」

と言われ、少し迷いましたが、お願いすることにしました。

 

その迷いは、

目の前に散らかった状態のものがあると、まず片付けてから、次のことに移りたい、

という私の性格からきているもので、片付けてから休みたいなと思ったのです。

でもそういう自分の完璧にやりたい性格に、

敢えて抵抗するようにしているところもあり、

今回はお願いをしました。

 

翌日、起きてみると、

案の定、やっていない、(やらないだろうな、という気もしていた)

その状態で、子どもたちのお腹すいたーに応えるために調理を始めなければならないことに、イライラしてきた・・・

しかも、洗い立てのクッションカバーに、洗っていない飲み会後の髪で寝ていた、

ということも重なり、

もうちょっとちゃんとして!考えられない!という思いが湧き出ました。

 

でもけんかにならないのが、私が変わったところ。

さて、なんでこんな思いになったのか、分析を始めます

 

どちらか一つだったら、ここまでイライラしないのか?

おおらかな人だったら、結果は違うのか?

プラスの要素でなくマイナスの要素ばかり見ているからなのか?

子どもに対しても同じような心の動きでイライラが生じるのか?

 

分析の結果わかったことは、

私は、そもそも満たされ容器がどデカいということ。

プラスの出来事があったら、ドバドバと容器に注がれるし、

マイナスの出来事があったら、ドバーっと抜けていくイメージ。

振れ幅が激しいし、エネルギー使うし、なかなか満たされない。

(ちなみに、夫は容器が小さく、振れ幅も小さいから、いつも安定しているイメージ。)

 

逆にそれは、感受性が高いということでもある、という気づきもありました。

小さなことでも感動したりハッピーな気分になれたりできる。

でも枯渇しやすい・・・

 

イメージなだけで、しっくりこない部分もあります。

夫も、それって容器が小さいってことなんじゃない?とまだ言っています。

正解はないので別にそこはこだわるところじゃありません。

 

重要なのは、

自分ってこんなところがあるって客観的に知っておくこと。

そうすると、出来事に対して自分はこんな反応をするんだ、

自分も相手も傷つけないように、じゃあこう対処しよう、となるのです。

 

感受性が強いからなのか?一気にヒートアップして自分を見失うことがよくありました。

それが自分を、時には相手をも傷つけてしまうことがありました。

いえ、まだ現在進行形で、あります。

 

今は、出来事に対して、何か心がソワソワ、ザワザワするのを感じたら、

自分を知るチャンスだ!と捉えています。

そこで自分の心なり考えなりを分析して、客観的に捉えることで、

成長につなげています。

けっこう癖になります。面白いですよ。

 

それをこうやってアウトプットさせてもらって、強化していくことが

また成長になります。

こんなふうに考える余裕や気づきをもらえること、成長できること、

恵まれた環境にいることに感謝です。