元小学校教員のもっと生きやすく・楽しくなるんじゃないかブログ

小学校教員病休→休職→退職。幼い2児の育児中。誰にでもその人固有の良さがある。それを輝かせて、よりよい人生を歩んでいきましょう。

書きたい思いを書かないという選択

こんにちは。kazです。

 

痛ましい事件が起きました。

このことに関して、書きたい思いがあるのですが、

私が発言することで、誰かを傷つけまいか、不快な思いをさせまいか、

まだ自信がもてないので、今は控えています。

ただ言えることは、

亡くなった方のご冥福を心よりお祈りいたします。

そして、二度と悲しい事件を起こさぬよう、私ができることに力を尽くします。

 

 

書かない、と選択しましたが、

思いがある、ということだけは伝えたかったから、書いた、

ということなのでしょうか。

書かずには次に進めないと思ったので、投稿します。

 

困っている人を救済できました!~祖父母の子どもへの影響について~

こんにちは。kazです。

 

前回か、前々回の投稿で、

仕事とは、人々の悩みを解消すること、困り事から救済することであり、

私は誰かを救済することなどできるのだろうか、

と思っていたことを書きました。

 

それが、できました。

ある一人の人を救済することができたのです

 

それは、夫です。

 

おいおい、身内かよ、という言葉が聞こえてきそうですが、

 

「救われたよー。」

 

と言ってもらいました。

しかも、私が発信して困っている誰かを助けたいというカテゴリーにおいて、です。

自分の価値を提供して、それによって困っている人を救うことができた

まさに、ビジネスだな、と思いました。

もちろんお金は発生してませんが。

 

 

遡ること約4週間前、ちょうどGWに、夫に悩みを話しました。

その頃は実母に対してネガティブな気持ちが強い時期でした。

 

私は我が子を否定する言葉、態度で傷つけてきました。

娘は情緒不安定で自己肯定感の低いところがありました。

それに気づいた時から自分の言動を修正し、少しずつ回復してきています。

 

ただ、私ではなく、おばあちゃんが、

我が子に対して、人格を否定するような言動をとった場合、

どうしたらいいんだろう?

それによって、娘は傷つき、回復してきた自己肯定感もまた下がってしまう。

 

そんな不本意な状況になるくらいなら、会わない方がいいのかな。

それとも、きっぱり、やめてほしいと伝えるべきなのかな。

 

どうすることが、子どもにとって、母にとって、私にとって、

最善の方法なんだろう。

 

その場では、当然ですが結論は出ませんでした。

 

それから2週間くらいでしょうか、ある時、ふと考えが浮かびました。

 

私っておばあちゃんの影響はほぼ受けていないな・・・

生まれたときから18歳まで一緒に住んでいましたが、

私におばあちゃんの影はほぼないです。

ということは、我が子もおばあちゃんの影響を受けないんだ。

多くて月に1度会うくらいだし。

余計な心配だったんだなーと考え直すことができました。

 

で、一昨日、子どもの話、親の話などをしているとき、夫が、

 

実家に帰ったときに父親に対して嫌だなと思ったのが、

テレビを見ながら、出ている人たちをけなしていて、

「子どもに余計な価値観を与えるなよ」

って思った。

 

と言うので、

祖父母の影響はほとんど受けないはず、ということを私の経験から話したら、

本当にほっとしたように、

 

「救われたよー。」

 

と。そして、

 

このことを知って助かる人はたくさんいると思うな、

 

と言ってもらいました。

 

私が目指している、

自分が経験したことから得た価値を、人に提供し、救済したい

という思いが形になった瞬間でした。

 

祖父母の我が子への影響を心配している人が、どれだけいるのかわかりませんが、

その人に届きますように。

 

しかし、これで終わりません。

なぜなら、忘れてはならないのは、

子どもは祖父母の影響は受けないけれど、

親の影響はほぼ100%受けてしまうということ

しかも、親は意識していなくても、その背中を子どもは見ている。

 

子どもにどうなってほしいか、を考えるならば、

自分がどうやって生きるか、を考えればいいんです。

私は、親として人として、

誠実に生きて、嘘をつかないで、

時に感情的になるけれど、人生楽しんでいる、

そんな感じで生きています。

 

大人が幸せになれば、子どもも幸せになります。

子どもに成長させられているってことなのかもしれませんね。

思いやり続編、母との関係性について

こんにちは。kazです。

 

思いやり投稿連投です。

思いやりマスターになれそうです。

 

この週末、実母が遊びに来ています。

今回は、私が勉強に出かけたいので、子どものお世話をお願いするため、

来てもらいました。

会うと必ず嫌な気持ちになるのですが、親孝行もしたい。

嫌な気持ちってのは、自分の心が傷つく場面があるということ。

心が、ウっ、となるんですが、わかりますかね?

(多分これって実母以外には感じないんじゃないかな)

 (→これって娘も私に感じているのかもしれないな)

 

思いやりにアンテナが張っている現在、

自分の心と共に相手の心を見るようにしています。

 

子どもたちを見てもらっている間に、夕飯の支度ができる。

なんてありがたいことなんだろう。

中断することなく、自分のことに集中できる、

子どもがいるとなかなかできないこと。

子どもたちも面白いことを楽しませてくれるばばちゃんが大好きで、

夕飯そっちのけで、きゃっきゃきゃっきゃ遊んでる。

それからいつも手土産をもってきてくれる。

それも私が好むようなものを選んでくれている。

食にはそれなりにこだわりがあって、そういうのを考えてくれている。

 

非の打ちどころないじゃないか。

私が敏感になりすぎていたのかな?

 

人は経験からしか物事を判断できないから、

真理を見るというより、思い込みで見ているということがある。

多分に私にはその傾向がある。特に母に対しては。

冒頭にも書いたけれど、会えば嫌な気持ちになる、と思い込んでいる。

何度となくその経験をしてきたから、そういう思考回路になっている。

ここで自分の心の中を傍観できたのは、プラスの経験になったな。

私のこと、子どものこと、夫のことを、大事に思ってくれている。

大事な大事なインプット。

 

さて、夕飯の支度、

母が、子どもも好きだし夫も好きだしということで、枝豆を買ってきてくれた。

私もそれを食す。野菜は大好き。

 

ん?

枝豆さん、薬の味がする??

 

最近農薬などにも敏感になっているため、たぶんその類。

 

と、そこで

「なんか薬っぽい味がする」

と言いそうになって、飲み込む。

思ったことを言わないと気が済まないタイプ、特に家族に対して、

なので初めこそ、言いたい、言いたいけど・・・がまん、

という感じでしたが、

 

あれ?

穏やかな食卓、誰も傷ついていない何事もない食卓、

心地いい。

 

薬の味を指摘するのは、自分の中のモヤっとしたものを吐き出してスッキリするための行為。

これまでは、スッキリするために、言う、という選択しかなかったけれど、

それを飲み込んだら、そのスッキリ感に勝る心地よさを体感。

 

えーーー!こっちの方が断然いい!!!

 

たぶん吐き出してしまっていたら、一時的なスッキリを得て、

その後、あのいやーな空気を感じなければならなかった。

心にウっときて、傷がまた増えていたかもしれない。

 

今まで、この言わずにいられない衝動によって、

実母や我が子を傷つけていたんだ。

ということは、母を責めるのは見当違い?

私が変わればいいんだ、それだけでよかったんだ。

 

もちろん(というのも変だけど)、

母の子どもたちへの接し方を見て、

そうそう、その押し付けが私を苦しめたんだよー

とう場面もありますが、

私が傷つけていたんだな、ということもわかったし、

母の私たちに対する愛情もしっかりと感じられたし、

母に対する見方が大きく変わりました。

 

母との関係性回復は、一番困難だろうと思っていました。

なので、この変化は私にとってとても大きなことです。

何とかしなきゃ、これを乗り越えないと次に進めない、

と必死になっていた時期がもありましたが、

肩の力が抜けている時に、意外とあっさりと良い方向に動き出しました。

 

やっぱり、相手をどうにかするという考え方は間違いなんですね。

自分が変わる、これしかないんだと改めてわかりました。

 

思いやりに悩んでいたからこそ、この発見ができました。

 

 

今日子育てコーチンセミナーに参加しました。

そこで、「シャンパンタワーの法則」というのを教わりました。

1段目、自分

2段目、身近な人(家族とか)

3段目、周りの人、知人

4段目、お客さん

・・・

というようにシャンパングラスが並んでいます。

1番上の自分が満たされないと、2段目の家族にはシャンパンは注がれません。

2段目が満たされないと、3段目にも注がれない・・・

 

ずっと、母とのことで、私のグラスは満たされていない状態だったのだと思います。

でも今回のことで、満たされたのか、満たされつつあるのか、

2段目にシャンパンを注ぐ準備ができたような、そんな感覚です。

やっと、思いやりのスタート地点に立てました。

 

 

思いやりマスターまではまだ時間がかかりそうですね。

ただ、今回は大きな一歩になりました。

自分の実現したい世界にも近づいた気がしています!

前回の思いやり投稿、納得しなかったので今回も思いやりに関して

こんばんは。kazです。

 

前回の思いやりのない私に関する投稿、

自分でも納得のいく文章にならなかったのですが、

そうすると、アクセスもスターも少ない。。。

いやいや、気にしない気にしない。

気にするべくは、自分の心の違和感です。

 

確かに、目の前の出来事に集中する、ということは重要ポイントですが、

それだけで思いやりにつながる・・・???

思いやりとはなんぞやー、わかる気がしないよー

とスッキリしない一日の始まりでした。

 

でも思いやりにアンテナ張っていたのでしょう。

いろんなことが見えてきました。

 

一つ目、今日は藤井先生とのお仕事の日。

その前に、

前々回、藤井先生がお昼のテレビ番組にコメンテーターとして出演されるという話、

結局火曜日は流れ、木曜日に仕切り直しになりました。

学校の隠ぺい問題、切ってくださいました。

 

藤井先生から「顧客対応のため少し遅れます」との連絡がありました。

気軽に考えていたら、到着するなり、

 

線路に飛び込もうと思っていたところ、

藤井先生のHPを見つけて電話してきたそうです。

 

唖然。

そして、泣きそうになりました。

藤井先生、一人の命を救っているよーー!

 

その後も、校長からのパワハラで教員休職したい方、不登校について、など、

仕事の合間に、電話対応をしておられました。

 

藤井先生から生き方、働き方、いろいろ教わりました。

そして、仕事の真髄は、誰か困っている人を救済することだということも。

私は誰をどのように救済していくか、いつも考えていましたし、

私は人を救済することなどできるのか、とも思っていました。

 

今回のことで、救済するとはこういうことなんだ!と確かに感じました。

 

藤井先生がいつもおっしゃられていることは、

コーチングの基本でもありますが、

答えは相手の中にある、信じ、預け、見守り、待つ。

 

もっとこうであればいいのに、と思うこともあるそうです。

でも誘導してしまっては、相手が成長するチャンスを奪ってしまう、

次にまた困難がやってきた時に立ち向かうことができない。

ゴールは、あくまでも相手が自分の力で解決できるようになること。

ただ、相手がそこまで欲してなければ、求められる以上はやらないとも言っていました。

どこまでも相手目線です。

 

私が自分の正しさを伝えようとしてしまうのは、

相手を救済しようと見せかけて、自分が価値ある人間だと示したいだけなのかもしれない。

結局自分を満足させたかったんだ。

どれだけ自分が大事なんだよ・・・と情けなくなります。

 

我が子に対しても、家族に対しても、誰に対しても、

本当に本当に相手のためを考えて行動してきたことって、

いくつあるんだろう・・・

あなたのため、と言って、

実は自分のためだったりするのは、薄々感じていました。

 

今回のことで、

誰かを救済することとはどういうことか、

人の役に立つということはどういうことなのか、

思いやりって、相手のためにって、

そういうことが私の中で統合された感じです。

あとは、実践ですね。やってみないと本当のところはわかりません。

 

これが一つ目。

二つ目は次の投稿にします。

二つ目もちょーいいこと体感できたので、お楽しみに。

って誰も楽しみにしていないかな?

今日はスッキリ納得感のある文章になりました。

アクセス、スター増えるかな?気にしない気にしない。

思いやりが乏しい私に、神のお告げが。

こんにちは。kazです。

 

ここ最近、

自分に思いやりがない!ということについて、考えていました。

 

始めは、3か月になる赤ちゃんを育てている身内とのこと。

何でも話せる仲のいい間柄だと思っています。

妊娠中から、育児の先輩である私にいろいろと相談してくれていました。

正直、当時の私は、育児に自信なんてなく、むしろ劣等感ばかりでしたが、

知っていること、わかることは答えていました。

 

殻を破って、育児や教育の本質(と思っていること)が見えてから、

また相談を受けました。

俄然やる気の私、相談きたきたーーーって、待ってました―――って。笑

 

LINEで超長文、私の考えをだーーーっと述べました。

とってもいい人なので、それに対してもまた質問してくれて、

また考えをだーーーーーーっと述べました。

3往復くらいして、

 

おや?私、〇〇さんの知りたいことに全然答えてないじゃん。

 

って気づきました。

ただのお節介です。押し売りです。

 

冷静になって、

えっと、聞きたかったことはこれだよね?笑

って返しました。

相手を傷つけてはいないと思うけど、まあ引かれたかな。

厄介な人に引っかかったと思われたかな。

 

そして、次も、

同じように育児に関して悩んでいる方に、

私の考えをだーーーーーーーーーーっと書き込みました。

これが正しいんです!ってな感じで。

しかも、これは相手を傷つけてしまったような気もしています。

 

短期間によくもまあ同じような失敗をしました。

もしかしたら正しいことを言っているのかもしれないけど、

これじゃあいかんな、と私でもわかります。

わかるけど、できない・・・

 

相手が何を求めているのかを察知する力が足りていないのかな?

 

このことに関しては、心当たりがあります。

 

幼少期、私の気持ちを親に汲み取ってもらえなかったんだと思います。

今でもそうです。

母親に私の考えを話すと、受け止める、受け入れるということをされずに、

拒否か、無関心か、自分の主張が返ってきます。

 

育児書か何かからの知識ですが、

 

自分の気持ちを受け入れられることを経験しない子どもは、

自分の気持ちがわからない、

自分の気持ちがわからないということは、

人の気持ちもわからない

 

らしいです。

これが私の根っこにあるのかなーと思っています。

だから、他人の気持ちなんて推察できない!と開き直りたいところですが、

人間関係は重要なので、このままでは幸せには近づけません。

まずは、他人の気持ちにをわかってあげるのが苦手なんだな、と自覚して、

じゃあどうするか?

 

悶々としていたところ、

一つ、これが解決策かな?ということが天から降ってきました。

 

目の前の出来事に真摯に向き合いなさい

 

他人の気持ちがわからないから、そこをスルーして、

自分の考えに目が向いてしまう。

自分だったら、自分には、自分は今、、、

自分、自分、自分のオンパレード。

自分の価値観の中で、どんどん先読みして、突っ走って、相手は置き去り。

同じ目線になんて立てるはずがない。

相手を救済なんてできるはずがない。

 

つまり、自分の内側で話が進んでしまい、

目の前の一つのことに、真剣に向き合ってないということなのかと。

 

よく考えると、

我が子への対応も、先読みしすぎて、心は遠くにある感じ。

子どもに「見て見てー」って言われても、それを一緒に楽しむ余裕はいつもなく、

 

(ご飯食べさせ、お風呂に入れてて、あ、先に洗濯物たたんでおくか・・・) 

「いいの作ったね!」

 

みたいな感じです。酷い。

 

いつも何となく焦っているのも、

先読みしすぎて、今に集中できていないんでしょうかね。

育児していると、いつもワサワサ、先読みするのも仕方ないですが、

子どもはそういうことに敏感ですよね。

 

お母さんは、いつも受け止めてくれないんだな。

 

自己有用感が下がります。

それだけで済まず、

人の気持ちを理解してあげられない子になってしまうのです。

 

相談の話に戻ると、

自分の話ばかりするお節介おばさんに、次は相談しない、

こうなりますね。

真剣に打ち明けてくれたのに、真剣に向き合えていなかった。

人の役に立ちたいと思っていたのに、

真逆のことをしてしまいました。

 

ただ一つ、今の自分をポジティブに語るなら、

今までずーーっと自分の思いを受け止めてもらえず、

自分の思いを表現することができなくなり、

自分の思いに蓋をして生きてきた私、

今やっと本当の自分の気持ちに気づいてあげられるようになったので、

喜ばしいことでもあります。

 

でも、それを相手に押し付けたり、相手の思いを受け止めななかったりでは、

私がされてきたことと同じになってしまいます。

 

今後は、その辺のバランスをうまくとっていき、

いずれは、真に相手のために行動できる人へとシフトできるように、

日々精進していきます。

 

目の前の出来事に真摯に向き合う

 

実はこれを意識して昨日子どもと過ごしてみました。

いやー時間がかかる。笑

でも、悪くない。

イライラというより、何やってんのって笑える。

先々を考えないようにしたので、焦りがなく、

まあいいやって思えるから、気が楽。

 

今日のお母さんは怒ってないねぇ

 

と言われました。

何日続くかわかりませんが。

以前書いた、

できることをやって、できないことはやらない、

とも通ずるところがありますね。

なにもかもがうまくいかない日もあるのさ~

おはようございます。kazです。

 

大好きな曽我部恵一さんの歌を聴きながら。

「なにもかもがうまくいかない日の歌」

 

昨晩の寝かしつけがぜーんぜんダメでした!

子どもを傷つけまくって寝入りました。

何にもしてやれませんでした。

 

子どもも私もとても疲労していました。

疲れているし、眠いし。

我が子は眠い時にテンション高くなるか、ぐずるかで、

昨晩はちょっとしたことで、すぐにぐずぐずしました。

2人いると、お互いに感染し合うので、2人ともぐずぐず。

いや、3人ともぐずぐず・・・

 

それでも、寝るまでは何とかがんばろうと、

できるだけエネルギーを消費しないように、機嫌を保つように、

努力しました。

 

でも、上の子のちょっとした言動に腹が立ってしまいました。

それも、上の子が下の子のちょっとしたことに腹を立てていることに、腹が立った。

書いていて苦笑いです。

確か、足の上にちょっと座ってしまった、みたいなこと。

 

そこから、「そんな小さなことで」と思って上の子にイライラした態度。

いやー、書いていて本当に情けない。

私こそ「そんな小さなことで」イライラしていたんだ。

 

その後の「抱っこ―抱っこ―」に応えてやることはできませんでした。

お母さんも人間だから疲れて何もしてやれないときもあるんだって、

言い続けていました。

今考えると、何もしてやれない自分にもイライラしていました。

これじゃあ子どもが傷つく、どうにかしたい、でもどうにもできない・・・

育児って、本当に孤独です。逃げ場がない。

 

上の子が感じ取っただろうことは、

 

お母さんは、私を抱っこしてくれない、

私より〇〇(下の子)の方が好きなんだ、

私は愛されているんだろうか・・・

私がすぐに機嫌が悪くなるダメな子だからだ、

私が悪いんだ、

 

はっきり言葉にして感じているわけではないですが、

無意識的にこういう感情が生まれてしまうんです。

無意識だからこわいんです。

潜在意識に刷り込まれるっていうこと。

 

上の子の心の中をのぞいたわけじゃないから、あくまでも予想ですが、

こういう感情が根付くっていうことが、私自身実感としてあります。

 

寝入って、しばらくして目が覚め、子どもたちの寝顔を見て、

愛おしくて、そして、ごめんねって。

育児ではよくある光景ですよね。

 

だれにだって、うまくいかない日はある。

起こってしまったことを嘆いても仕方ないので、

受け止めて、次につなげていくしかない。

 

・・・とそう簡単にいかないのが育児だと思うんです。

3つ子の魂100まで、とか、乳幼児期の親のかかわり方が、とか

そういうことが知識としてあるし、実感としてもあるので、

割り切れないというのも正直なところです。

 

まあそれでも、3歳までと考えたって、

1000日以上あるうちの1日の出来事、

何百万、何千万回以上あるコミュニケーションのうちの数回、

そう思うと、刷り込まれたことも変換されるんじゃないか?

 

そんなところくらしかポジティブに捉えられないけれど、

新しい今日は、いいコミュニケーションがとれるようにしよう。

それには、心のゆとりです。

私にはこれが一番重要。

ゆとりを持ってお迎えに行けるよう、一日の過ごし方を考えてみます。

 

・・・と書き終わったところで、娘が起きてきました。

ほっぺにチューされました。

私と父親を見て嬉しそうにしています。

かわいい。大好き。守りたい。

そう、ここが原点ですよね!

人のせいにしてばかりいた私の話。

おはようございます。kazです。

 

私は、何でも人のせいにする人でした。

 

特に、自分にとって都合の悪い出来事に関して。

 

「私が嫌な思いをするのは、あなたが悪い!」

「あの人が〇〇と言ったから。」

「何でこんなことするの?私が酷い目にあったじゃない!」

「組織の仕組みがなっていない!」

「社会が悪い!」

 

と、こんなふうに。

もう何でも人のせい。

 

夫との間に起ったことは、夫のせい。

仕事で何かあったら、同僚のせい、管理職のせい、保護者のせい、学校の仕組みのせい。

育児に関しては、子どものせい、実母のせい、社会のせい。

 

これは防衛本能なんだと思います。

自分が危ないから、身を守るために相手を攻撃する。

そうすることでしか、ストレス社会を生き抜いていけないとも思う。

 

でも、きっと心の中では、自分が(も)悪いって思っていたんです。

相手を責めることで、逆に、

自分が悪い、自分はダメだ、という思いを強化してしまいました。

 

ある本に書いてありました。

アファメーションといって、「自分は成功する」と自分に言い聞かせることで、

行動や結果を良い方向にもっていくという方法がありますよね。

でもそれは、「自分は失敗者だ」と言い聞かせているようなものだ、と。

私には、それが、ものすごくよくわかりました。

 

学校に行けなくなって、人生行き詰まったのも、

誰かのせいにしすぎて、

本当に見なきゃいけないものを見ていなかったからなんだと思います。

誰かを責めて、その場では自分を守ることができても、

心の中では「自分が悪い」が積み重なってしまったんでしょうね。

自己肯定感はどんどん低くなりました。

 

本当は何が原因で、何をどう変えれば改善されるのか、

その時その場できちんと向き合っていればなーと、

今さらながら思います。

 

そう、だから、

これからは全てのことに責任を持って行動したいと思っているのです。

 

全て、と言ってしまうと、また完璧主義が出てきたと、

私のメンターたちに言われてしまうので、

そこは気をつけていきたいところですが。

 

私のメンターの1人である、藤井先生もよくおっしゃっています。

『日本で人のせいにするクレーマーが増えたのは、

 1995年の「製造物責任法(PL法)」が制定されたあたりから。』

モンスターペアレントが現れ始めたのも、このころからだそうです。

PL法とは、製品の欠陥によって何か問題が生じたときは、損害賠償を求められるというもの。

当たり前の権利ではあるのですが、

何かあったらお上のせい、ちょっとしたことでも訴えればいい

みたいなちょっと歪んだ考え方が浸透してしまったということです。

 

ちなみに、藤井先生、

本日、フジテレビのお昼の番組にコメンテーターとして出演されます。

お会いする予定でしたが、急遽決まったそうで、お忙しい方です。

www.kyoushi-tensyoku.com

 

私の話に戻します。

全てのことに責任を持ちたい、

言葉だけ見ると、自分を締め付けるような感じがしますが、

何でもかんでも自分のせいにする、ということではありません。

 

できることはやる、

できないことはやらない、

 

これだけです。

 

自分の言動に責任を持つということは、

嘘をつかないということでもあります。

今までは、

できないかもしれないことを、がんばって何とかしてきた。

つまり、自分にも相手にも嘘をついてきたのと同じ。

悪気は全然ないし、むしろ世のため人のためにがんばってきたんですけどね。

 

でも、

ずーっと無理をしてきたんです。

その無理が、誰かを責めたり、自分を悪いと思ったり、

結局誰かを傷つけることになってしまった。

 

できることをやって、できることはやらない主義になったら、

仕事も、夫婦生活も、育児も、人間関係も、

スッキリ進むようになりました。

 無理がなくなったんです。

 

全てのことに責任を、と考えると、

自分がやっていること一つ一つが、周りにどんな影響を及ぼしているかを

考えるようになりました。

 

我が子へかける言葉一つで、

同じマンションの住人への挨拶で、

コーヒーをいただいたカフェの店員さんへの一言で、

ゴミの出し方で、

どの食材を買うかで、

どの商品を選ぶかで、

何を口にするかで、

選挙で一票を投じることで、

ブログで発信することで、

 

こんなに考えてもなお、

誰かを何かを傷つけていることになっていることに

もどかしさを感じます。

温暖化に歯止めがかからないこととか、

子どもが虐待や貧困で苦しんでいることとか、

原発問題とか、

種の絶滅とか、

課題は山のようにありますが、

でも、できることをやる、それしか方法はないんだと思います。

 

自分さえよければいいという個人主義では、

もう明るい未来は期待できないと思っています。

 

小さな日々の行動が、大きな違いを生み出す!

 

って、さっきLINEで届きました。

以前登場したAさんからなんですけど。

こんな仲間に出会えて本当に幸せです。

 

できることを一つ一つ、積み重ねていきたいと思います。