元小学校教員のもっと生きやすく・楽しくなるんじゃないかブログ

小学校教員病休→休職→退職。幼い2児の育児中。誰にでもその人固有の良さがある。それを輝かせて、よりよい人生を歩んでいきましょう。

新築マンションを買っても、結婚しても、痩せても、幸せになれなかった私

おはようございます。kazです。

 

金曜の夜のこと。

お風呂から父と子2人の

幸せなら手をたたこう♪」

が聞こえてきて、幸せな気持ちになったのをきっかけに、

なんでこんなに幸せな気持ちを持てるようになったんだろう、

と考えていました。

 

悲しいかな、私ずーっと満たされていなかったんです。

その瞬間、瞬間では、幸せ〜とか思うけれど、

また何かあると、どうして私だけこんな不幸なんだろう…って、

結局元に戻ってしまう。

だから、また幸せを求めて行動する。

一時的に幸せを感じ、また元に戻る、の繰り返し。

 

ベースにあるのが、「私は幸せじゃない」という状態で、

それを何かで埋め合わせて、「幸せ」な状態を作っていた、

という感じですかね。

 

そして、

学校に行けなくなって、病休に入って、休職して、退職して、

この字面だけ見ると、幸せとは程遠いような半年間を経て、

本当の幸せを実感するようになった。

心から満たされている感じ。

 

今度は逆パターンで、

 

何か問題が起こると、一時的に落ち込んだり、イライラしたりするけれど、

それも通過点と捉えることができて、

ポジティブに受け止め、幸せ状態に戻る。

 

つまり、ベースが「私は幸せである」という状態なんですね。

 

有名人の著書を読む等して、

苦しみを経験した人こそ新しいものを生み出せる、

それを経験していない人とは違う世界が見られる、

なんてことを、漠然とですが思っていました。

だから、苦しみを乗り越えた私も、

何と言うか新しいステージに行けたのかな、

それで、今まで感じられなかった満たされ感を得られるようになったのかなーと。

 

徹底的な、これがあったから変われた!

というものがなく、

ぼやーっと、

わかるようなわからないような感じでした。

 

それが、昨日、徹底的なこれ!が見えました。

私が幸せを感じられるようになったのは、

 

真実に近づいたから

 

なんだと思います。

 

抽象的すぎて、何のことやらさっぱりですよね。

 

もう少し落とし込んで言うと、

 

無知を知って、そして手放して

真実に近づいたから。

 

わかりづらくてすみません。

まず、無知とは、

本当に大事なことは何か、がわかっていなかったということです。

 

新築万書を買っても、新車を買っても、

素敵な服を持っていても、美味しいごはんが食べられても、

海外旅行に行けても、安定した職があっても、

貯金が増えても、

仕事で認められても、

家をきれいにスッキリさせても、

植物を育てても、

脱毛しても、痩せても

結婚しても、出産しても、

幸せになれませんでした。

 

これらは、幸せになるために全部実践したことです。

もちろん一時的に幸せな気分に浸れますが、長く続かなかったのです。

これらは私の人生において大事なことではなかったんですね。

 

学校に行けなくなったのをきっかけに、

病休、休職の決断に迫られ、

仕事で認められていた私を手放しました。

復職するか、退職するかで悩み、

安定した職、経済的余裕を手放しました。

 

仕事、育児で手一杯だった私は、

自分が倒れてしまう危機状態だったので、

何を優先すべきかを決めなければいけなかったんです。

自分にとって大事なことは何か、

手放さなきゃいけないものは何か、

考えに考え抜きました。

 

手放すのは、辛いですよ。

だって、今まで幸せになれると信じて築いてきたものですから。

 

でも、この過程があって、本当に大事なものがわかりました。

 

私自身と家族です。

 

これを守ること、これを愛で包むこと、

それが私のやることです。

 

じゃあそのために具体的に何をすればいいか、

と考えると、いろんなことがとてもシンプルになりました。

 

子どもへの対応、

食べるもの、料理するもの、

買うもの、捨てるもの、断るもの、

何を仕事にするか、何にエネルギーを注ぐか、

今何をするべきか、

 

そこから、

私たち家族が幸せであるための未来をつくっていかなきゃいけない、

未来を託す子どもたちを取り巻く環境が重要だな、

教育問題に取り組まなきゃ、

子どもや孫世代のために、地球環境をよくしていなきゃいけない、

環境問題なんとかしなきゃな、

 

みたいな感じで、今の自分の行動が 決まってきました。

 

仕事においても生活においても、

自分や家族を幸せにするための選択ができるようになり、

「私は幸せである」状態が根付いたのです。

 

何を大事に生きていけばいいか、

これを知らずに生きてきたんだと思います。

これが私の言っている、無知を知る、です。

 

無知によってかなり振り回されて生きてきたんだなーと、思いました。

大事じゃないものに一生懸命になって、

そりゃあ神経すり減ります。

 

そしてまだ無知に振り回されている感はあります。

まだ気づいていない無知、

手放せていないものはたくさんあるということ。

 

最後に、

自分で読み返して、あれ?と思ったのですが、

結婚しても出産しても、幸せになれなかった、

というところ、

結婚したから幸せになれる、

出産したから幸せになれる、

と思っていたんですね。

でも結婚も出産も一時的なものではなく、

通過点であり、それをどう営んでいくかに目を向けなくてはいけなかった、

それを知らなかった、ということです。

 

自分の本当に望んでいるものと全てが一致したら、

ものすごい満ち満ちた世界が待っているんだろうなー。

未来は捨てたもんじゃない、

というか、未来は明るい、

そう信じられます。

 

我が子のわがまま対処:行為否定か人格否定か

こんばんは。kazです。

 

今日は我が子のわがままに、上手く対処できたので共有します。

 

上手く対処ということなんですが、

これまでは、できるだけわがままやイヤイヤ言われないように、

細心の注意を払うことを心がけていました。

そうすることで、こちらのイライラが軽減するというメリットがあります。

でも、どれだけ事前準備しても、網の目をくぐるように、

私のイライラスイッチを押しに来るのです。

 

今、ダンスに興味があるため、ダンス教室とチアダンス教室の体験に申し込んでいました。

 

「今週末だね、ダンス。今週がダンスで、来週がチアダンスだったな、確か」

 

と言ったら、

 

「えーー、もうぅ!チアが先がいい!なんでーー!?」

 

と急に機嫌が悪くなる我が子。

 

そして、カッチーンときた私。

 

 

でも、この後の発言が、上手くいったのです。

 

「え?お母さん、〇〇が喜ぶと思って申し込んだんだけどな、

 お母さんも一生懸命〇〇のことを考えてやってるのに、

 その言い方はないんじゃない?」

 

別に優しくいったわけでもなく、嫌だなと思ったことを率直に言葉にしました。

 

今までだったら、

 

「え?お母さん、〇〇のためにやっているのに、

 なんでそんな言い方するの?信じられない。

 なんでいつもそうわがまま言うの?」

 

この微妙な違いわかりますかね?

 

注目したいのは、

 

上:行為を否定しているか、

下:その子自身を否定しているか、

 

の違いです。

 

よく言いますよね、

叱る時は、その行為について問題にして、人格否定をしてはいけないって。

 

行為の良し悪しだったら、受け入れやすいし反省もできる。

でも、人格の良し悪しって・・・考えただけで胸が苦しくなります。

自分はわがままな子、自分はダメな子、お母さんを苦しめる子、って

自己肯定感がめちゃくちゃ下がります。

 

よくよく考えると、こんなに酷いことだとわかるんだけど、

イライラしていると、つい言ってしまうんです。

どうしたものか・・・

 

今回は本当にたまたま上の言葉が出てきてくれました。

 

結果としては、1分後くらいには引っ付いてきて、

「もうーわかったよー、ダンスはキャンセルして、チアを先にする」

って自分から言ってきました。

あ、ダンスキャンセルね、そういう選択かと思ったのですが。笑

自分で折り合いをつけたみたいです。

 

普段だったら、お互いに結構引きずって、いやーな空気になります。

こんなにあっさり終わったのは珍しいです。

 

深く考えたわけでもなく、自然に出てきた言葉なのに、

子どもを傷つけることなく、でも言いたいこともちゃんと伝えられて、

後味悪くないし、最高の気分です!

 

もちろん、自分の納得解を導いた子どもの成長も大きいと思います。

ただ、私が積み重ねてきた成果なのかなーとも思うのです。

満足です。

 

 

 

 

 

インプットと統合とアウトプットの話。

こんにちは。kazです。

 

昨日、家にスマホを忘れました。

電車に乗った後に気づいたので諦め、こんな日を楽しもうと思いました。

結論としては、楽しむ程のことはなく、あった方がよかった。

なので、今日は何度も携帯しているか確認しました。笑

 

電車に乗ると、ほとんどの人がスマホいじってます。

もう当たり前の光景になりました。

読書している人もちらほら。

あとはイヤホンで音楽か何か聴いている人。

たぶん、じゃなくて絶対、私もSNS見ていただろうな、と思います。

 

そんな中、スマホも本も持ってこなかった私がしたのは、考え事。

気づいたら、考え事をしていました。それしかやることがなかった…

普通ならやり過ごす、生活の中でちょっと気になっていたことをじっくり考えていました。

でも、それってすごくすごく重要だなと思いました。

スマホや本やイヤホンからって、インプットばかり。

どんどん情報が流れてくるから、立ち止まることがない。

 

インプットしていると、知った気、わかった気になりますが、

実は何もわかっていないってことありませんか?

そして、すぐに忘れる。

その繰り返し。

メモを取るようにしたこともありましたが、そのメモを見返さない。

身体に落とし込むのはなかなか至難の業です。

 

自分が休職に追い込まれ、とにかく苦しかった時期に救われたのは、

インプットでした。特に本。

自分の知らない世界が開けました。

自分ってすごい可能性があるんじゃないか!って思いました。

今まで引き出されなくて錆び切っていた自分の思いや考えが引っぱり出されて、

自分がどんどんバージョンアップしていく感じです。

自分にも何かできそうだと思わせてくれました。

 

私には次のステップがありました。

それは、自分と統合することです。

いろんなやり方や生き方、考え方、スキルがあるけれど、

今の自分には何が必要で、何が必要でないか、

何ができて何ができないのか、立ち止まって考えました。

 

私はたまたまカウンセリングを受けたり、

今後教職を続けるべきか悩んだりする時期だったので、

自然と自分との統合を図りました。

このステップによって、自分が一番大事にしたいこと、自分の強みを発掘できました。

 

ここからが最も重要だと思います。

自分の軸がわかったら、それをアウトプットすることです。

これが私を一番成長させました。

大事なこと、強みがわかっても、それを外に出さなかったら何にもなりません。

 

アウトプットによって、

頭の中にはいい感じで考えが構築されていたけれど、

言語したら、ぐちゃぐちゃなのがわかりました。

 

考えを整理する。

もっとちゃんと伝わるように根拠を明確にする。

  ↓

考えも表現もブラッシュアップされる。

  ↓

アウトプットしたことが自分とかけ離れるということがなくなる。

違和感があるならどこかズレがあるということだから、

それがなくなるまで続ける。

  ↓

考えと言葉と行動が一致する=ブレがない

 

というところまで構築できたと思います。

 

ここまで確固たるものが出来上がると、

仕事も生活も育児も人間関係も、すべてが繋がって、

怖いものがなくなるというか、

悩むことがなくなるというか、

 

例えば、何を食べるとか、何を買うかとかも迷いがないし、

やりたことには飛び込むし、

やりたくないことにはNOと言える、

 

とにかく楽~~なんですよね。

 

 

これが、当たり前にできていてほしかったなー、自分、と思います。

30過ぎたおばさんが苦しみながらやるんじゃなくて、笑

子どものうちから、積み重ねて、価値観を構築しておきたかった。

そのためには、教育ってほんっとに大事だと思います。

大事なところこそ、子どもに任せちゃいましょう。

少し悩みながらも、子どもは自分なりに考えて、成長していくのですから・・・

 

偉そうなこと書きましたが、正直、まだブレそうになることはあります。

なので、アウトプットで強化していきます!

先生のキャパってけっこうすごい!と書きたかったけれど、環境問題の話が長くなりました。

こんにちは。kazです。

 

今日はグリーンピース・ジャパンのボランティア活動をしてきました。

グリーンピース、知っていますか?

環境問題に取り組むNGO団体です。世界各国に拠点があります。

日本は先進国の中では規模がかなり小さいらしいです。

政府や企業からの資金援助を受けず、寄付金だけで活動しているのです。

だから、ボランティアは貴重な存在です。

知れば知るほど関わらざるを得ない。

 

私は、環境に配慮して生活している方です。

洗剤とか食材とか衣服とかゴミとか水とか、かなり意識していると思います。

それでも、まだ、自分が何気なくやっている買っている使っていることで、

環境を破壊しているということが、たくさんあって…

やっぱり自身が子どもを持ち、教育についても真剣に考えるようになり、

真に子どもたちのために、と考えると、地球環境をより良いものにしたいんです。

教育や育児の環境を整えることもそうですが、

地球環境がどんどん悪化してしまっては、何にもなりません。

子どもたちの未来にとって、地球は絶対に必要なものです。

 

でも、環境を破壊しているって言っても、なんか実感がないですよね。

原発は怖いと思っても、実際に身体に変化がないから、実感がない。

いろいろやっているけれど、私は原発には結構うといんです。

 

でも、実はもう身近なところで、影響が出始めているということがわかり、

積極的に参加しようと思いました。

 

それが、です。

 

塩って海からとりますよね。

環境問題に詳しくなくても、海に自然じゃないものが流れ込んでいるのは知っていますよね。

海洋環境で特に注目されているのは、プラスチックです。

分解されずに海に漂い、熱や波の影響でマイクロプラスチックになります。

それが、世界各国の塩ブランドのサンプル9割から発見されたのです。

もしかしたらもう日本の食卓にも上がっているかもしれない。

 

今ちょっと調べただけでも、

2015年東京湾で釣りあげたカタクチイワシからたくさんのプラスチック片が…

2018年人体からも見つかった…とか

もう、知らないとか関係ないとか言ってられない状態なんだと危機感を持ちました。

 

日本って?なのか、世界でもなのかわからないけれど、

都合の悪い真実を隠しますよね。

学校とか企業とか政府とか、組織が大きくなればなるほど。

自分に都合の悪いことを隠す、気持ちはわかるけど、

でも市民の国民の健康や命がかかっていても隠すのか!!??

 

それにNO!というためには、行動を起こすしかないんです。

だから、私は、できることをやります。やり続けます。

これを読んで、少しでも関心を持ってくれることを願って。

 

 

今日はこれを書こうとしたのではなかった・・・

今日書きたかったこと

それは、

オフィスボランティア(電話対応・英訳・資料整理)をしたのですが、

「電話対応上手ーー」

「安心して任せられる!」

「パーフェクト!」

と言ってもらえてうれしかった!ということでした。笑

 

別のお仕事、保育士養成学校運営のお手伝いをしているのですが、

そこでも、

「仕事できるね」

「どこでもやっていけるよ!」

「ほめない上司だけど、kazさんのことすごくほめていたよ」

と言ってもらえているのです。

 

学校現場で、ある意味堅い仕事をしていたのも、

学級経営して全体のバランスを見ながら仕事をしていたのも、

元々の熱心さとか誠実さとか責任感の強さとかを持って仕事をしていたのも、

ここにきて発揮できていると思えました。

10年以上がんばってきてよかったなーと思えた瞬間です。

 

だから、先生ってけっこう使える人材なんです!

先生や学校が起こした事件とかで、先生の地位が下がっているような気がしますが、

私が出会った先生たちって、かなりレベル高い人が多かったんです。

賢さもそうですが、センスがあるというか、かっこいいなっていう人。

なのに、なんで学校って伸び悩んでいるんだろう…

 

教員採用や教員評価、それから研修とか、あらゆる仕組みの問題があると思います。

あと問題だと感じるのは校長の経営力

 

グリーンピースの話に戻って、

15分のミニ全体研修みたいなものがあったのですが、

それぞれの担当はあるけれど、全員が同じベクトルを持って参加していると感じました。

職員室では、それが足りない、というか、ないというか、

みんな違う方を向いている→これが一番しっくりくる。

 

そうしてしまう環境というか仕組みが問題なんじゃないかなーと思うのです。

でも、先生たち、みんな必死にがんばっています。

子どもたちのために一生懸命仕事をしています。

なんなのでしょう。もう、ループ状態。

 

先生の魅力とか実力とかが発揮できる学校現場を作りたい!

子どもたちのために!

完璧主義を脱したと思っていたら・・・

こんにちは。kazです。

 

今日は精神科通院の日でした。

現在、うつ病で仕事ができないため療養しているということになっています。

確かに、仕事を休み始めたころは、そんな状態でしたが、

今は、逆に仕事しないでこんなに好きなことしていていいのか?

と思ってしまうくらい回復しています。

そろそろ卒業ですかね。やめ時っていつなんだろう?

 

主治医の先生の診断の後、任意でカウンセリングを受けられます。

私はこの時間が大好きです。

大好きというのは語弊があるかもしれませんが、

自分を見つめ、他者評価を受けられる貴重な時間です。

 

鬱々としていた頃には、本当に救われました。

自分でもわからなくなっていた心の中を整理してもらいました。

でも、今でも行くと毎回涙を流しています。笑

自分の心を見つめるのって、エネルギーがいるってことなんですかね。

 

今日の学び。

自分自身には完璧を求めなくなった。

でも、家族に対しては完璧を求めてしまっている・・・

 

がびーーーん。古

昨日書いた記事、管理職に100点求めるなと言いながら、

自分がやってしまっていた、しかも大切な家族に。

 

 

自分自身について

何でもかんでも、仕事でも家事でも育児でも100点を求めていた。

特に、人からの評価が100点になるように頑張っていた。

それが、80点でも、50点でも、どんな自分も受け入れられるようになった。

 

だから、仕事も自分の思う100点は目指さない。

相手の求めることには100%応えられるようにがんばるけれど、

それ以上は求めない。無理はしない。

なんかちょっと変だな、違うなと思っても、

仕事の本質とは違うということについてはエネルギーを使わないようになった。

 

家事も、絶対に手作りご飯を作りたかったけれど、たまには冷凍食品でもいいや、

子どもが喜び、私が休めるなら、それでよし!と思える。

もちろん、手作りしたいけど、無理はしない。

 

対人関係が一番楽になったなと思うところ。

できていない自分でもさらけ出せる、

どう思われても、それは相手が決めることだから、自分が関与できることではない。

そう思えるようになって、

思ったことはどんどん言えるし、聞きたいことはじゃんじゃん聞けるし、

それによって、自分の可能性がどんどん開けてきて、

ますます自信が持てるようになり、自信過剰か!というくらい…

途端に人生スムーズに進むようになりました!

 

結局、自分を大事にしない人生だったんだなーと気づきました。

そう、100点を目指すと、自分を傷つけることになるということ。

子どもには100点なんか目指させちゃいけない!

ありのままでいいんだよって伝えたい!

こんな感じで自分を愛することができるようになったんですね。

 

 

そして、家族に対して

できない自分、ありのままの自分を受け入れられるようになったのですが、

家族には、完璧ほどではないけれど、「できる」ことを求めているようです。

「できる」ってどういうことかというと、

例えば、夫に料理を頼んだとします。

子どもが食べるのにちょうどよい大きさに野菜がカットされていない、

ちょうどよい柔らかさになっていない、

そういうことに、「なんでこうやったの!?信じられない!」となってしまう。

 

例えば、〇時にテレビを終わりにするといった我が子が、やめられない。

グダグダ言い訳をして、もっと見たいと主張する我が子に、

「約束したよね?」と詰め寄ってしまう。

 

同居している家族以外の人が同じことをしたらどうか。

実の母は、「なんで!?」と思ってしまう。

義母は許容できる。

姪たちは許容できる。

親しい友人も許容できる。

 

ということは、私の思いをよくわかってくれていそうな人に対して、

寛容性がないということになりますね。

 

家族って、自分が心地よくいられる場所。

だから、自分の心地よさを侵害されると、カチンときてしまう。

 

もしくは、自分がコントロールできる範囲だから、

私ならこうしたのに、いつも言ってるよね?と思ってしまう。

 

そういうことなのかな?

 

ということは、解決策は、

家族に対して、家族以外の人と同じように寛容に接するということですかね。

 

身近な自分や家族に寛容になるって難しいことなのかもしれません。

完璧主義だった自分を乗り越えられたので、

家族においてもできるのではないかと思います。

何かコツのようなことがあるのかな?

また勉強して情報を出していきます!

100点じゃないとダメなんですか?

こんばんは。kazです。

 

先日、ある方にお会いして、インスピレーションを受け、

そのことを考えていたら、今日、教員時代の出来事が浮かび教育に関して怒りが・・・

怒りは何のためにもならないので、冷静になって書きます。

 

ある方をA氏とします。

A氏は、7,8年前から脱サラして自分のこれだ!と思う道を進んでこられた方。

真実をちゃんと見ておられる方で、めちゃくちゃ頼りにしております。

宇宙からのメッセージで動いているそう。

昔の私は宇宙とか言われても、なんのこっちゃという感じだったのですが、

最近は、宇宙とつながっている感じが、なんとわかってきたのです・・・

 

そんなA氏との話、

私が育児でも仕事でもまだ完璧を目指してしまう癖が残っているという話をしていたとき、

コンサルタント時代の上司に、

「仕事は80点で持ってこい、それ以上を目指すと効率が悪くなる。」

と言われていたということを教えてくれました。

ビジネスの世界ではスピード感が大事、コストが大事ということ。

 

私にはコストという概念はなく、時間や労力をかけてできるだけ良いものを作るという人でした。

どれだけやったかできたか、で売り上げが変わるということもないので、

公務員は特にコスト意識が低いのではないかと思います。

 

ビジネスの視点があったら、仕事の仕方が変わっていただろうな~と思いました。

 

そんな話を聞いて、ふと思い出したことがあります。

教員時代、レポートや指導案を提出した際、まず教頭にチェックしてもらう。

赤を入れられたところを修正して、校長のチェックを受ける。

また赤の箇所を修正して、さらに教育委員会のチェックを受ける。

また赤で直されて、修正。

根本的な間違いならともかく、ちょっとした誤字脱字、1マス下げるとか、

「」より『』の方がいいとか、、、

 

これは当たり前の文化としてあったけれど、おかしくない??

そのレポートや指導案って誰のために作ってるんだ?

校長や教育委員会の価値観に合わせるために時間割いてたの?

レポートや指導案は最終的には「子どもたちのため」になるはず。

そのチェックは果たして「子どもたちのため」なのか?

 

もう一つついでに思い出したので、書かせてください!

そのレポートやらを書いて提出したときの上司の態度を思い出してしまった。

「その仕事はやって当たり前」と思っている!

労いの一言もない!

 

もちろんそうではない上司もいました。

その人の下でだったら、力を尽くしたいと思ったものです。

でも、自分の立場に躍起になってばかり、

または、もう子どもたちに向き合うのは終了したとでも思っているのか、

という管理職がいたのも事実です。

これじゃあ学校教育、よくなりませんよ。

 

言いたいのは、

学校は教員に100点でなくてはならないという刷り込みをしているということ。

それを助長しているのは、社会が教員に100点を求めているということもありますね。

もちろん、大切な子どもを預かっている、教育に間違いがあってはならないということもわかります。

少なくとも私は、100点を目指して日々仕事をしていました。

それが良しとされる組織であることは間違いありません。

それに苦しんでいた教員の一人です。

誰のための100点だったんだろう?

 

それは、子どもたちにも100点を求めることにつながります。

100点でなければいけないですか?

(なんか、2位じゃダメなんですか?みたいですね。笑)

 

 

 

100点じゃなくてもいい、ありのままの自分でいい

私はこの考えを持つことで救われました。

 

だれかが決めた100点を目指すなんて、疲れてしまいます。

生まれてきたことでもう自分100点!ですよね。

 

そんなふうに子どもたちが自分をとらえられるようになってほしい。

そして、先生や親たちもそんなふうに自分を愛してあげてほしい。

そうしたら、子育ても教育も温かくなりそうです。

子どもたちが幸せになるためには、どうしたらいいのか、これが大事ですよね。

 

怒りで始まった文章も、温かさで締めくくれてよかった。

 

 

毒親とのせめぎ合い、そこから得たもの。

おはようございます。kazです。

 

我が家は10連休なので、私の実家→夫の実家に帰省しています。

 

以前にも触れましたが、私は毒親に育てられました。

今もその毒は脈々と私の中を流れています。

 

毒親といっても、虐待されていたわけでもなく、ネグレクトでもなく、

兄弟と比較されていたわけでもなく、離婚もしていない、

ごくごく普通の家庭のように見えていたと思います。

 

何が毒だったかと言うと、母親の価値観です。

それがずっと私を苦しめてきました。

今は少し解毒できてきたかな、というくらい。

 

大人になって、自信がないとか、自己嫌悪とか、自己肯定感・有用感が低いとか、

そういうことで悩んでいる人は、ほぼ100%、毒親育ちなのだと思います。

  ※私の主観なので、違っていたら教えてほしいです。

 

そして、子どもを持ち、子育てをすると、毒親になる可能性がかなり高いと思う。

   ※ここも私の主観です。

私も毒親です。少しずつ毒を抜いて親に近づいているといいのですが・・・

 

 

で、前置きが長くなりましたが、

その毒親との関係が本当に難しい!!!

 

会うと必ず嫌な気持ちになっていたので、一時期距離を置いていました。

でも、自分の価値観を築いていき、少しずつ人生が好転していき、

母親に対しても、感謝の気持ち、尊敬の気持ちが戻ってきました。

 

「戻った」と書きましたが、元々、母親の価値観に縛られていたので、

母親が正しい、母親は尊い、母親に育ててもらって感謝、

という気持ちが当然のようにありました。

 

自分が子どもを持ってから、

子どもに対して言いたくないことをつい言ってしまったり、

自分を守りたいが故に子どもを傷つけてしまったり、

自分の育児にどんどん自信がなくなっていて・・・

いろんな本を読んで、「毒親」の存在に気づいたという経緯があります。

本の中でも、自分が受けた経験をまた繰り返すと書いてありましたが、

本当にその通りでした!

 

それからは、ずーーーっと母親を憎み疎んじていました。

それが、自分を見つめる時間をもったことで、薄れていったというわけです。

どうやって薄れたのか、また分析して書いていきますね。

 

 

今回は、それでも、やっぱり、関係性の難しさを感じたということを書きます。

 

母親も孫たちに会うのを楽しみにしているので、それを叶えてあげたくて、

それが一番の親孝行だと思っているので、今回も帰省しました。

 

私は世の平和を願っているくらいですから、笑

母親の話、愚痴ばかりですが、「ふん、ふん」と聞きます。

コーチングも勉強しているので、「大変だったねー」と共感します。

 

で、今、私が退職して、どんなことやっているかの話になったときに、

環境保護ボランティアをしているので、

「自分たちが出したごみが環境に悪影響を及ぼしていて、

だからこういうことを大事に生活しているよ」

と言ったら、

 

「オムツだって環境破壊なのにねーー」

「服たくさん持ってるしねーー」

 

と攻撃してきました。

カチンときた!

でもすぐ反撃せず、数秒考えて、

「今の言葉で私は嫌な気持ちになったよ」

「きれい事言って、全然できていないよねって否定された気分」

「時々子どもたちにも自分を守るために攻撃する言葉使っているんだよ!」

「そういうのがあるから、もう話したくなくなる!」

 

あーーー負けたーーー

 

攻撃された以上に、攻撃してしまいました・・・

 

母親は「自分は不憫だ」という思いに悩まされている人です。

だから、自分を良く見せたい!という考えが人一倍強いんです。

自分の悪いところは隠す、

隠すだけならいいのですが、

自分の悪いところを徹底的に排除したいがために他人を責めるという行為に至ります。

 

私が環境に配慮しているというのを聞いて、

自分が否定されていると思ったのでしょう。

(もしかしたら、私の言葉に母親を否定する気持ちが入ってしまったのかもしれません・・・)

それで自分を守るために、私を攻撃した。

 

私は、それを知っているので、数秒考えたけれど、うまく対処できずに、

むしろ、反撃してしまいました・・・

そう、私も自分の悪いところは隠さないといけないと思い込んでいたから。

悪いところを排除するためには、相手を攻撃するしかない。

その染みついた考えの癖を治すのって、本当に本当に難しい。

 

親孝行したくて帰省したのに、何だかなーの結末になりました。

 

でも、あー嫌だった、で終わらせずに、次にどうつなげるかを考えればいいんです。

ヨーガの先生にも、

「誰かに怒りが沸いてきたら、相手ではなく、自分に目を向ける」

ということを教わりました。

相手を変えたかったら、自分を変えよう とかよく言いますが、

とにかく、自分に目を向けることで、自分も周りも環境も変わるということを

ここ数年でたくさん体験してきました。

それが私の人生を好転へ向かわせた重要ポイントです。

 

 

自分を見つめた結果、

 

自分は180度変わったと思っていました。

でも、実はほとんど変わっていないんだなと気づかされました。

私ってすごいかも、とか勘違いしていました。

あれだけ自己肯定感が低かったのが、これだけ自信家になったのは、確かにすごい。

でももっと自分を謙虚に見つめることが必要だなと思いました。

 

母親に対しても、養育環境とか、家族の事とか、結婚してからの境遇とか、

辛いことがいっぱいあったのも知っている、

母親自身が苦しんでいる、

それを受け止めてあげられるのは、私しかいないということもわかっている、

でも、まだまだ自分がかわいいんだなって気がつきました。

 

そして、親の影響は大人になってからもなかなか抜けない、

それを理解して子育てをしてほしい、

そうでないと苦しい人たちをつくってしまうという現実。

この考えを子どもを育てている親たちに、これから親になる人たちに伝えたい!

という思いを強くしました。

 

 

誰も傷つかない世の中に、また一歩近づいたかな?