富士山、そこに在るだけで影響を与え続ける、圧倒的存在感。
こんにちは。kazです。
今朝、富士山が快晴の空にそびえ立っているのが見えました。
富士山まで100km近く離れていますが、
その存在感は圧倒的です。
約1万年前から火山活動を繰り返し、あの美しい形をつくり、
昔から今なお、日本人だけでなく世界中の人々を魅了する富士山。
形を変えることもなく、ただそこにあるだけなのに、
エネルギーなのかパワーなのか言葉なのか、
受け手によって違うけれど、何かを発しているのは確か。
存在感て、こういうことなのか。
私には尊敬する人がたくさんいます。
生き方や語っていることから学んでいるのかと思っていましたが、
もしかしたら、その存在自体が私を突き動かしているのかもしれない、
そんなふうに思いました。
そして、私も、
この私の存在で影響を与えていけばいいのか、と。
自分の価値を知るとか、自己を肯定するとか、
それも本質ではありますが、単なるハウツーなのかもしれない。
もっともっと大事なのは、
自分がそこにある それだけでいい
という存在感なんだ。
我が子にとって、夫にとって、愛犬にとって、
身近な人たちにとって、社会にとって、
私がここにいるだけで、それだけで価値を与えている
そんな存在になればいいんだ。
思えば、
子どもはこんなふうに育てた方がいい、
夫との関係性は、
愛犬に寂しい思いをさせている、
社会貢献するには、
そんなふうに頭を使ってばかり。
特に子どもに対しては、
ああでもない、こうでもないと、つい口や手が出てしまう。
そびえ立つ富士山のように、圧倒的な存在感で子どもを包んだら、
もっともっと子どもたちは伸び伸びとしていられる。
私を見て安心していられる、
私の生き方が何かを発している、
そんな私の存在で、家族も社会もわずかでも良くなる、
そんな人であればいいんだ。
頭を使って、ああでもない、こうでもないと、
ちょこまかちょこまか動いてしまう私、
それは、何かを持っていないといけない、何かを達成しないといけないと
思い込んでいるんですね。
何かをやるのではなく、もしかしたら何もやらない方がいいのかもしれない。
富士山のように堂々とそこに在る、
今日気づいたから、そう在れる。
いつの間にかそんな自分になっていることに気づくのかな。