元小学校教員のもっと生きやすく・楽しくなるんじゃないかブログ

小学校教員病休→休職→退職。幼い2児の育児中。誰にでもその人固有の良さがある。それを輝かせて、よりよい人生を歩んでいきましょう。

完璧主義を脱したと思っていたら・・・

こんにちは。kazです。

 

今日は精神科通院の日でした。

現在、うつ病で仕事ができないため療養しているということになっています。

確かに、仕事を休み始めたころは、そんな状態でしたが、

今は、逆に仕事しないでこんなに好きなことしていていいのか?

と思ってしまうくらい回復しています。

そろそろ卒業ですかね。やめ時っていつなんだろう?

 

主治医の先生の診断の後、任意でカウンセリングを受けられます。

私はこの時間が大好きです。

大好きというのは語弊があるかもしれませんが、

自分を見つめ、他者評価を受けられる貴重な時間です。

 

鬱々としていた頃には、本当に救われました。

自分でもわからなくなっていた心の中を整理してもらいました。

でも、今でも行くと毎回涙を流しています。笑

自分の心を見つめるのって、エネルギーがいるってことなんですかね。

 

今日の学び。

自分自身には完璧を求めなくなった。

でも、家族に対しては完璧を求めてしまっている・・・

 

がびーーーん。古

昨日書いた記事、管理職に100点求めるなと言いながら、

自分がやってしまっていた、しかも大切な家族に。

 

 

自分自身について

何でもかんでも、仕事でも家事でも育児でも100点を求めていた。

特に、人からの評価が100点になるように頑張っていた。

それが、80点でも、50点でも、どんな自分も受け入れられるようになった。

 

だから、仕事も自分の思う100点は目指さない。

相手の求めることには100%応えられるようにがんばるけれど、

それ以上は求めない。無理はしない。

なんかちょっと変だな、違うなと思っても、

仕事の本質とは違うということについてはエネルギーを使わないようになった。

 

家事も、絶対に手作りご飯を作りたかったけれど、たまには冷凍食品でもいいや、

子どもが喜び、私が休めるなら、それでよし!と思える。

もちろん、手作りしたいけど、無理はしない。

 

対人関係が一番楽になったなと思うところ。

できていない自分でもさらけ出せる、

どう思われても、それは相手が決めることだから、自分が関与できることではない。

そう思えるようになって、

思ったことはどんどん言えるし、聞きたいことはじゃんじゃん聞けるし、

それによって、自分の可能性がどんどん開けてきて、

ますます自信が持てるようになり、自信過剰か!というくらい…

途端に人生スムーズに進むようになりました!

 

結局、自分を大事にしない人生だったんだなーと気づきました。

そう、100点を目指すと、自分を傷つけることになるということ。

子どもには100点なんか目指させちゃいけない!

ありのままでいいんだよって伝えたい!

こんな感じで自分を愛することができるようになったんですね。

 

 

そして、家族に対して

できない自分、ありのままの自分を受け入れられるようになったのですが、

家族には、完璧ほどではないけれど、「できる」ことを求めているようです。

「できる」ってどういうことかというと、

例えば、夫に料理を頼んだとします。

子どもが食べるのにちょうどよい大きさに野菜がカットされていない、

ちょうどよい柔らかさになっていない、

そういうことに、「なんでこうやったの!?信じられない!」となってしまう。

 

例えば、〇時にテレビを終わりにするといった我が子が、やめられない。

グダグダ言い訳をして、もっと見たいと主張する我が子に、

「約束したよね?」と詰め寄ってしまう。

 

同居している家族以外の人が同じことをしたらどうか。

実の母は、「なんで!?」と思ってしまう。

義母は許容できる。

姪たちは許容できる。

親しい友人も許容できる。

 

ということは、私の思いをよくわかってくれていそうな人に対して、

寛容性がないということになりますね。

 

家族って、自分が心地よくいられる場所。

だから、自分の心地よさを侵害されると、カチンときてしまう。

 

もしくは、自分がコントロールできる範囲だから、

私ならこうしたのに、いつも言ってるよね?と思ってしまう。

 

そういうことなのかな?

 

ということは、解決策は、

家族に対して、家族以外の人と同じように寛容に接するということですかね。

 

身近な自分や家族に寛容になるって難しいことなのかもしれません。

完璧主義だった自分を乗り越えられたので、

家族においてもできるのではないかと思います。

何かコツのようなことがあるのかな?

また勉強して情報を出していきます!

100点じゃないとダメなんですか?

こんばんは。kazです。

 

先日、ある方にお会いして、インスピレーションを受け、

そのことを考えていたら、今日、教員時代の出来事が浮かび教育に関して怒りが・・・

怒りは何のためにもならないので、冷静になって書きます。

 

ある方をA氏とします。

A氏は、7,8年前から脱サラして自分のこれだ!と思う道を進んでこられた方。

真実をちゃんと見ておられる方で、めちゃくちゃ頼りにしております。

宇宙からのメッセージで動いているそう。

昔の私は宇宙とか言われても、なんのこっちゃという感じだったのですが、

最近は、宇宙とつながっている感じが、なんとわかってきたのです・・・

 

そんなA氏との話、

私が育児でも仕事でもまだ完璧を目指してしまう癖が残っているという話をしていたとき、

コンサルタント時代の上司に、

「仕事は80点で持ってこい、それ以上を目指すと効率が悪くなる。」

と言われていたということを教えてくれました。

ビジネスの世界ではスピード感が大事、コストが大事ということ。

 

私にはコストという概念はなく、時間や労力をかけてできるだけ良いものを作るという人でした。

どれだけやったかできたか、で売り上げが変わるということもないので、

公務員は特にコスト意識が低いのではないかと思います。

 

ビジネスの視点があったら、仕事の仕方が変わっていただろうな~と思いました。

 

そんな話を聞いて、ふと思い出したことがあります。

教員時代、レポートや指導案を提出した際、まず教頭にチェックしてもらう。

赤を入れられたところを修正して、校長のチェックを受ける。

また赤の箇所を修正して、さらに教育委員会のチェックを受ける。

また赤で直されて、修正。

根本的な間違いならともかく、ちょっとした誤字脱字、1マス下げるとか、

「」より『』の方がいいとか、、、

 

これは当たり前の文化としてあったけれど、おかしくない??

そのレポートや指導案って誰のために作ってるんだ?

校長や教育委員会の価値観に合わせるために時間割いてたの?

レポートや指導案は最終的には「子どもたちのため」になるはず。

そのチェックは果たして「子どもたちのため」なのか?

 

もう一つついでに思い出したので、書かせてください!

そのレポートやらを書いて提出したときの上司の態度を思い出してしまった。

「その仕事はやって当たり前」と思っている!

労いの一言もない!

 

もちろんそうではない上司もいました。

その人の下でだったら、力を尽くしたいと思ったものです。

でも、自分の立場に躍起になってばかり、

または、もう子どもたちに向き合うのは終了したとでも思っているのか、

という管理職がいたのも事実です。

これじゃあ学校教育、よくなりませんよ。

 

言いたいのは、

学校は教員に100点でなくてはならないという刷り込みをしているということ。

それを助長しているのは、社会が教員に100点を求めているということもありますね。

もちろん、大切な子どもを預かっている、教育に間違いがあってはならないということもわかります。

少なくとも私は、100点を目指して日々仕事をしていました。

それが良しとされる組織であることは間違いありません。

それに苦しんでいた教員の一人です。

誰のための100点だったんだろう?

 

それは、子どもたちにも100点を求めることにつながります。

100点でなければいけないですか?

(なんか、2位じゃダメなんですか?みたいですね。笑)

 

 

 

100点じゃなくてもいい、ありのままの自分でいい

私はこの考えを持つことで救われました。

 

だれかが決めた100点を目指すなんて、疲れてしまいます。

生まれてきたことでもう自分100点!ですよね。

 

そんなふうに子どもたちが自分をとらえられるようになってほしい。

そして、先生や親たちもそんなふうに自分を愛してあげてほしい。

そうしたら、子育ても教育も温かくなりそうです。

子どもたちが幸せになるためには、どうしたらいいのか、これが大事ですよね。

 

怒りで始まった文章も、温かさで締めくくれてよかった。

 

 

毒親とのせめぎ合い、そこから得たもの。

おはようございます。kazです。

 

我が家は10連休なので、私の実家→夫の実家に帰省しています。

 

以前にも触れましたが、私は毒親に育てられました。

今もその毒は脈々と私の中を流れています。

 

毒親といっても、虐待されていたわけでもなく、ネグレクトでもなく、

兄弟と比較されていたわけでもなく、離婚もしていない、

ごくごく普通の家庭のように見えていたと思います。

 

何が毒だったかと言うと、母親の価値観です。

それがずっと私を苦しめてきました。

今は少し解毒できてきたかな、というくらい。

 

大人になって、自信がないとか、自己嫌悪とか、自己肯定感・有用感が低いとか、

そういうことで悩んでいる人は、ほぼ100%、毒親育ちなのだと思います。

  ※私の主観なので、違っていたら教えてほしいです。

 

そして、子どもを持ち、子育てをすると、毒親になる可能性がかなり高いと思う。

   ※ここも私の主観です。

私も毒親です。少しずつ毒を抜いて親に近づいているといいのですが・・・

 

 

で、前置きが長くなりましたが、

その毒親との関係が本当に難しい!!!

 

会うと必ず嫌な気持ちになっていたので、一時期距離を置いていました。

でも、自分の価値観を築いていき、少しずつ人生が好転していき、

母親に対しても、感謝の気持ち、尊敬の気持ちが戻ってきました。

 

「戻った」と書きましたが、元々、母親の価値観に縛られていたので、

母親が正しい、母親は尊い、母親に育ててもらって感謝、

という気持ちが当然のようにありました。

 

自分が子どもを持ってから、

子どもに対して言いたくないことをつい言ってしまったり、

自分を守りたいが故に子どもを傷つけてしまったり、

自分の育児にどんどん自信がなくなっていて・・・

いろんな本を読んで、「毒親」の存在に気づいたという経緯があります。

本の中でも、自分が受けた経験をまた繰り返すと書いてありましたが、

本当にその通りでした!

 

それからは、ずーーーっと母親を憎み疎んじていました。

それが、自分を見つめる時間をもったことで、薄れていったというわけです。

どうやって薄れたのか、また分析して書いていきますね。

 

 

今回は、それでも、やっぱり、関係性の難しさを感じたということを書きます。

 

母親も孫たちに会うのを楽しみにしているので、それを叶えてあげたくて、

それが一番の親孝行だと思っているので、今回も帰省しました。

 

私は世の平和を願っているくらいですから、笑

母親の話、愚痴ばかりですが、「ふん、ふん」と聞きます。

コーチングも勉強しているので、「大変だったねー」と共感します。

 

で、今、私が退職して、どんなことやっているかの話になったときに、

環境保護ボランティアをしているので、

「自分たちが出したごみが環境に悪影響を及ぼしていて、

だからこういうことを大事に生活しているよ」

と言ったら、

 

「オムツだって環境破壊なのにねーー」

「服たくさん持ってるしねーー」

 

と攻撃してきました。

カチンときた!

でもすぐ反撃せず、数秒考えて、

「今の言葉で私は嫌な気持ちになったよ」

「きれい事言って、全然できていないよねって否定された気分」

「時々子どもたちにも自分を守るために攻撃する言葉使っているんだよ!」

「そういうのがあるから、もう話したくなくなる!」

 

あーーー負けたーーー

 

攻撃された以上に、攻撃してしまいました・・・

 

母親は「自分は不憫だ」という思いに悩まされている人です。

だから、自分を良く見せたい!という考えが人一倍強いんです。

自分の悪いところは隠す、

隠すだけならいいのですが、

自分の悪いところを徹底的に排除したいがために他人を責めるという行為に至ります。

 

私が環境に配慮しているというのを聞いて、

自分が否定されていると思ったのでしょう。

(もしかしたら、私の言葉に母親を否定する気持ちが入ってしまったのかもしれません・・・)

それで自分を守るために、私を攻撃した。

 

私は、それを知っているので、数秒考えたけれど、うまく対処できずに、

むしろ、反撃してしまいました・・・

そう、私も自分の悪いところは隠さないといけないと思い込んでいたから。

悪いところを排除するためには、相手を攻撃するしかない。

その染みついた考えの癖を治すのって、本当に本当に難しい。

 

親孝行したくて帰省したのに、何だかなーの結末になりました。

 

でも、あー嫌だった、で終わらせずに、次にどうつなげるかを考えればいいんです。

ヨーガの先生にも、

「誰かに怒りが沸いてきたら、相手ではなく、自分に目を向ける」

ということを教わりました。

相手を変えたかったら、自分を変えよう とかよく言いますが、

とにかく、自分に目を向けることで、自分も周りも環境も変わるということを

ここ数年でたくさん体験してきました。

それが私の人生を好転へ向かわせた重要ポイントです。

 

 

自分を見つめた結果、

 

自分は180度変わったと思っていました。

でも、実はほとんど変わっていないんだなと気づかされました。

私ってすごいかも、とか勘違いしていました。

あれだけ自己肯定感が低かったのが、これだけ自信家になったのは、確かにすごい。

でももっと自分を謙虚に見つめることが必要だなと思いました。

 

母親に対しても、養育環境とか、家族の事とか、結婚してからの境遇とか、

辛いことがいっぱいあったのも知っている、

母親自身が苦しんでいる、

それを受け止めてあげられるのは、私しかいないということもわかっている、

でも、まだまだ自分がかわいいんだなって気がつきました。

 

そして、親の影響は大人になってからもなかなか抜けない、

それを理解して子育てをしてほしい、

そうでないと苦しい人たちをつくってしまうという現実。

この考えを子どもを育てている親たちに、これから親になる人たちに伝えたい!

という思いを強くしました。

 

 

誰も傷つかない世の中に、また一歩近づいたかな?

 

愛犬の話から、地球環境の話まで。世界はつながっている。

こんにちは。kazです。

 

今日は、もうすぐ6歳になる愛犬のしつけ教室に行ってきました。

そう、犬を飼っています。めちゃくちゃ可愛い癒し系のMix犬です。

 

子どもばかりに手がかかり、あまりかまってやれていないので、

月に1,2度は犬が主役の日をつくろうと思って行き始めました。

 

今日一番の収穫は、

今の時点でしつけが行き届き、信頼関係がしっかりつくれていることは、

シニアになって、目が見えない、耳が聞こえなくなった時に、

ハンドサインやタッチサインが通じたり、痛みを伴う治療も落ち着いて受けられたり、

犬の人生(犬生)を長い目で見て、その子の幸せのためになる

と教えてもらったことです。

 

それを聞いて、じーんときてしまいました。

 

アニマルウェルフェア(動物福祉)やアニマルライツ(動物の権利)という観点で、

数年前からお肉をほとんど食べない生活をしています。

勉強会やイベント参加、ボランティア活動などもしています。

 

子どもの頃から犬を飼っており、動物愛護の気持ちが強いから、

今このような考えをもっているのかな?

しつけ教室の先生のお話にも涙が出そうになったのは、そういうことなのかな?

と、帰りの車の中で、ぼんやり考えていました。

 

今まで私の琴線に触れるような出来事って何か共通点があるはず。

何か得られそうな予感!

犬と私だけの空間、よし、ここを掘り下げようと思い立ちました。

 

すると、突然、何かが降りてきました。

 

私は愛されたかった

生まれてきてよかったと思いたかった

 

どばーっと涙が溢れました。

 

そして、車の中で、号泣しながら、何度も何度も叫びました。

愛されたいだけなんだよーーーー

生まれてきてよかったんだーーーー

 

私の心の奥が震えるのは、

愛されたいのにそれがかなわない状況にある自分や相手を見たとき、

生まれてきてよかったと思えない状況にある自分や相手を見たとき、

なんだ、と納得しました。

 

毎日かまってもらえない、僕って生きている意味あるのかな?って思っているような愛犬、

ただただ愛されたいだけなのに、うまく表現できず、お母さんも忙しそうで、満ち足りていない我が子、

氷河が解けてエサも住処も奪われた餓死寸前のホッキョクグマ

親から虐待を受け、どこにも逃げ場がない子ども、

自分はダメだ、誰も幸せにできない、生きる価値もないと思っていた自分、

 

今までは、何をどうやっても、それらを解消してあげることができませんでした。

何もできないので、したくはないけれど、ずっと傷つけ続けていたのです。

 

でも、今は少しずつ解きほぐされてきています。

自分を愛することができ、家族を愛することができ、幸せを取り戻しました。

教育支援のお手伝いをすることで、虐待を受ける子どもたちに少し届いているような気がしています。

環境保護ボランティアを通して、ホッキョクグマの幸せにも少し近づいた気がします。

 

自分が変わることで、自分が行動することで、

誰かを幸せにすることができるんだと実感しています。

 

自分は家族と地域と社会と地球とつながっている、

このことに気づいて、私の人生は変わりました。

 

誰も傷つかない、誰もが幸せになれる世の中ってありますか?-あるんです!

こんにちは。kazです。

 

前回の投稿、半日くらい前ですが、

子どもたちの選択肢を奪わない社会の実現

を目指したいと書きました。

 

その社会を実現したいのはなぜか?

 

それは、

誰も傷つかない世の中にしたい

 からです。

 

そんな理想郷のような世の中、実現すると思いますか?

私は、できると思います。

だから目指しているのですが。

 

でも、10年、20年じゃあ実現しません。

50年、100年かかるのかな?

でも予想もつかない世の中だから、もしかしたら10年後には叶うかも?

 

とにかく、一人では無理、おそらく長いことかかるということを見越して、

子どもたちにそのバトンを渡したいと考えました。

子どもたちに誰も傷つかない世の中をつくってもらいたいのです。

 

そのためには、子どもたちにそんな素敵な世の中が実現するんだという夢をもってもらいたい。

今の子って現実主義というか、大人のような感覚を持っている子って多いと思います。

夢なんて描くだけ無駄、世の中そんなに甘くない、地に足をつけて、

大人がそういう背中を見せているっていうことなんでしょうけど。

 

現実を見ること、自分の身を守ることも大事ですが、

それでは何も変わりません。

それどころか、日本の世界の地球の様々な問題がどんどん悪化していきます。

それを食い止め、みんなが幸せになれる世の中をつくっていきたいのです。

 

 

夢を持ち、毎日ワクワクして、失敗を恐れず何でもチャレンジする、

そんな子どもたちだったら、なんかすごいことができそうな気がしませんか?

そういう可能性をがんがん伸ばしてあげられる教育を提供したいのです。

 

かくいう私、30余年、「どーせ私は」といって、自分の可能性を閉じていました。

でも休職をきっかけに、自分を愛し、自分の可能性を広げていきました。

私ってこんなに行動的だったの!?と自分が一番驚いています。

そして、自分を愛せたので、家族を心から愛せるようになりました。

家族の誰も傷つかない幸せの形を見つけました。

この実践に自信があります。

きっと誰にでも適応できるはず。

社会だって変えられるはず。

それが、誰も傷つかない世の中を実現できるはずだという根拠です。

 

30過ぎのおばちゃんが、自分を180度変えるってすごくないですか?笑

柔軟な子ども・若い世代だったら、すぐに変われて、すぐに輝けると思います!

そしたら、面白い世の中になると思うんだけどなーー。

 

だれもが幸せになれる方法は絶対にある!

 

私がやりたいこと!もう一度原点に立ち返って

こんにちは。kazです。

 

アクセス数を気にして、

どんなことを、どんなふうに書いたら☆がもらえるか気にして、

本当のことが書けていなかったことに気づいた今日この頃です。

 

そういう人の目を気にする自分を脱ぎ捨てたと思っていたけれど、

幼いころから染みついたもの、30数年育んできたものを捨てるのは、

本当に難しいものですね。

 

でも、ここで気づいたので、これからはまたブラッシュアップされたこと、

本当の自分の気持ちや考えに近づいたことを書けるはずです。

 

 

私がやりたいことは、

子どもたちの選択肢を奪わない社会の実現!

です。

 

そのために、子どもに関わる親や先生などの意識を変えること。

 

そのために、何ができるか・・・

それを今模索中です。

 

私の思いが届いた人、ぜひ語らいたいです。

コメントください。

 

教員退職したのに、なぜいまだ学校にこだわるのか(2)

こんにちは。kazです。

 

前回の記事の続きです。

親や学校によって、正解主義排他主義といった

いらない価値観、私たちの可能性を奪う価値観を植え付けられてしまうという話をしました。

 

どうすればいい?

 

大人が未来を見据えていればいいのです。

将来社会に出たときに必要な力をつけてあげればいいのです。

必要だと思ったら、とことんこだわって伝える。

いらないと思ったら、捨てる。

それだけ。

 

でも、 学校はどうしても正解主義や排他主義から逃れられない。

それには理由があります。

 

1.テストがあるからです。

やっぱり、かわいい子どもたちに、いい点数をとってもらいたい。

そして、親御さんにも喜んでもらいたい。

 

これは子どもたちを大切にしているからこその思いです。

 

でも、本質的ではない。

 

いい点数をとってもらうことも、親を喜ばせることも、

その瞬間のためでしかない。

先生が子どもたちに関われるのは、実際には1年だけ。

だから、その1年で結果を出そうとしてしまうのです。

 

また、点数はわかりやすいから、その点数=その子だと思わせてしまう。

100点がとれていれば、優れた子。

点数が低ければ、劣った子。

 

でも、5科目やそこらではその子を表すことなんてできません。

それなら、
・ユニークなアイディアを持っている

・折り合いの付け方がうまい

・他者の痛みが分かる

・感受性が豊か

・駅名を言わせたら誰もかなわない

・人の特徴をよくつかんで物まねができる

・年間行事の日付けを全部覚えている

・競争心が全くない

・弟の保育園の送り迎えをしている

 

後半雑になりましたが・・・

そういうその子だけが持っている特徴とか経験値っていうのを

大事にした教育、誰もが輝ける教育をするべきなんです!

 

正解はないし、だれも排除しない。

 

その子を丸ごと受け入れることによって、

その子が伸び伸びと自分を表現することができる。

それが未来を変える力になると思いませんか?

 

教員時代、通知表の所見欄に命をかけていました。

言いすぎました、時間をかなりかけていました。

点数では表せない、その子なりの良さを伝えたかったんだな、と思いました。

 

テストをなくせばいいと思いますが、

通知表や学校保管の成績簿など、複雑な面もあり、簡単ではないですね。

評価方法を見直すことは必要だと思います。

 

 

 

学校がどうしても正解主義や排他主義から逃れられない理由

2.忙しいからです。

担任は、

個性的な40人前後の子どもたちを一人で見ないといけないからです。

その人たちを乗せた船頭となり、行事や各教科の余剰時間のないタスクを背負って、

他のクラスや学年との調整を図り、時には保護者対応、部活動、その他事務作業、

なんてやってたら、

 

「静かに前向いて座っていなさい!」

「余計なことはしないで!」

 

という事態に陥ってしまうのです。

先生は、子どもたちを乗せた船を、なんとか1年後目的地へ到達できるよう必死なのです。

 

麹町中学校の工藤校長先生の言葉です。(学校の「当たり前」をやめた。より)

 

「学校に来る」こと自体は、社会の中でよりよく生きていけるようにするための一つの「手段」にすぎないということです。

 

学校に来ることは、目的ではないのです。

学校で勉強することは、目的ではないのです。

学校で友だちと仲良く集団生活することは、目的ではないのです。

宿題をすることは目的ではないのです。

運動会を成功させることは、目的ではないのです。

1年間無事に過ごすことは、目的ではないのです。

 

忙しさのために、教育の本当の目的を忘れてはいけない。

忙しいは言い訳でしかない。

確かに、忙しい状況にしている教育界の上層部には、文句を言いたいです。

でも、もう一度一人ひとりの先生が、子どもたちの未来を考えたならば、

きっと変わるはずです。

 

 

子どもはどう変わる?

 

私は休職中にこのことに気づき、結局学校で実践できないまま退職したので、

学校の子どもたちがどう変わるかは妄想でしか測れません。

 

ただ、我が子にこの未来視点で接するようになって、

我が子は変わりました。(今まで窮屈な思いをさせていたと思います。)

そのことによって自信が沸いて、自分がどんどん良くなりました。

それによって、夫への接し方も変わり、家族の幸せがぐぐっと大きくなりました。

そして、社会へもっと貢献したいと思うようになり、いろいろな活動を始めました。

好循環です。 

 

そのような実践をされている先生がいらっしゃったら、ご意見を伺いたいです。